天下分け目といわれた関ヶ原の戦いはなぜ半日で決着がついたのか?

2016.09.22

(2016年9月22日メルマガより)



■NHKの大河ドラマ「真田丸」はご覧になっていますか?

私は、第1回目から欠かさず観ております^^

ここ数年、大河ドラマには食指が動かなかったのですが、今回は1回目の放送からのめり込んでしまいました。

とにかく面白い!

近年のドラマの中でも出色のものではないでしょうか。

■ご存じのない方のために説明いたします。

「真田丸」とは、徳川・江戸幕府と豊臣家が戦った大坂冬の陣において、豊臣家側の武将・真田幸村(信繁)が大坂城外堀の外に築いた出城のことです。

真田幸村は、後世「日本一のつわもの」と呼ばれるようになる著名な武将ですが、大坂の陣当初は無名の一浪人でした。

むしろ、当時は、真田幸村の父・真田昌幸や兄・真田信之の方が知られていました。

幸村の父・真田昌幸は、信濃の小国の首領として、徳川、北条、上杉といった大国を翻弄しながら生き抜いた智将です。実際の戦いにおいても、徳川の大軍を二度にわたって撃退するなどの戦巧者でした。

また兄・真田信之は、関ケ原の戦いにおいて、昌幸・幸村と袂を分かって徳川方につき、真田家の家督を守り抜いた実力者です。

大河ドラマのタイトル「真田丸」は、大坂冬の陣における出城を示すと同時に、真田昌幸、信之、幸村ら真田一族の結束を一艘の船にたとえたものです。彼らが、戦国終盤の時代、いかにして生きたのかを描きます。

■戦国時代というのは、ドラマの宝庫です。豊臣秀吉や徳川家康といった天下人を向こうにまわして知恵と勇気で生きていく一家の話が面白くないはずがない。

そう思って観始めた大河ドラマでしたが、期待以上のものでした。

NHKの大河らしく配役が豪華で芸達者です。これまでの歴史ドラマではあまり目立たない人物なども、俳優がそれぞれの見せ場を作ってくれています。

たとえば、西村雅彦が演じた室賀正武なる武将。こちらは、真田昌幸と同じ信濃の豪族ですが、昌幸を殺そうとして返り討ちに合う人物です。その逸話は劇的であるものの、それ以外は目立たない人物のはず。

が、「真田丸」において、室賀正武は「黙れ、小童!」の決め台詞とともに大いに活躍し、人気を博しました。

なにしろ脚本が三谷幸喜。大河らしからぬ軽妙さや大胆な展開が一筋縄ではいきません。

特に前々回(9月11日放送)の関ケ原の描き方には驚きました。

■関ケ原の戦いというと、戦国時代終盤のハイライトともいうべき出来事です。

豊臣政権の存続を願う石田三成側と、政権簒奪を狙う徳川家康側、日本中の武将がどちらかの陣営に分かれて戦いました。この出来事だけで物語が一つできるほどの大事件です。

しかし、今大河ドラマにおいては「西軍が負けました」という台詞一つで終わらせてしまったのです。

なんたる肩透かし!

関ケ原の戦いは、真田一族は参加してないから描かないということなんでしょうかね。いや、関ケ原にまで行きつく石田と大谷のドラマはかなり丁寧に描かれていましたから、そういうわけでもないような。

おかげで大人気だった石田三成(山本耕司)も、大谷吉継(片岡愛之助)も最後の見せ場なく消えていきました。

たぶん三谷幸喜という人は、飽きっぽくて興味のなくなったことには冷淡なんですよ。ひどい別れ方をする人なんでしょうね。いや、そんなことはどうでもいい...

■ということで代わりに私が関ケ原についてお話しいたします。

関ケ原とは、岐阜県不破郡にある山間の谷です。古来、多くの街道が通る要衝の地でした。

豊臣秀吉亡き後、天下人らしい振る舞いをする徳川家康に、危機感を抱いた石田三成が挙兵したのは西暦1600年7月のことでした。

その時、家康は、上杉征伐準備のため江戸にいたのですが、三成側が伏見城を攻めたとの報を聞き、大坂へ向かいます。

この時、家康のもとには、上杉征伐のため多くの大名が従っていました。なんと間の悪い。その状況で、家康のもとを離れて、石田の味方をするわけもいかず、そのまま多くが家康側につきます。その中には、豊臣恩顧の大名も多く含まれていました。(もっとも彼らは石田三成と険悪な関係にあったと言われています)

大坂へ向かおうとする東軍(徳川側)と、迎え撃つ西軍(石田側)が関ケ原で対峙したのが、9月15日。

両軍合わせて17万を超す大軍勢が狭い谷間にひしめくことになりました。

兵数は東軍の方が若干優勢ですが、迎え撃つ西軍は、戦う上で優位な土地に陣を敷いていました。陣の形だけを見れば、西軍が圧倒的優位です。

ところが、そんな状況にも関わらず、東軍はわずか半日で圧勝してしまいます。

なぜか。西軍に多くの裏切りがあったからです。

■寝返り行為によって最後の引き金を引いたのは、豊臣秀吉の親族である小早川秀秋でした。地の利を得て、優勢に戦いを進める西軍の脇腹に、寝返った小早川軍が雪崩れ込みました。

寝返りを予測していた大谷吉継はこれを一度は食い止めるも、それに呼応した西軍の諸将複数が寝返ったために、西軍は総崩れとなりました。

なんともあっけないことです。

もともと小早川秀秋は、晩年の秀吉に不満があったとされています。老いてから嫡男秀頼を得た秀吉は、その行く末を心配するあまり、憂いになりそうな人物を排していきました。甥の豊臣秀次は切腹させられました。秀秋自身も小早川家に養子に出された上、よくわからない理由で減封されたりしています。ちなみに秀吉の死後、家康たちのとりなしにより、領地は回復させられました。

だから実質的には、小早川秀秋は、豊臣家よりも徳川家康に恩義を感じていたとも言われています。

■しかし、裏切ったのは小早川秀秋だけではありません。西軍最大の誤算は、西軍の総大将毛利家の有力家臣吉川広家が東軍に内応していたことです。吉川軍が動かなかったので、その背後に陣を敷いていた毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家らは、戦いに参加することができませんでした。

またはるばる鹿児島から駆け付けた島津義弘も、三成の使者が無礼だとか言ってへそを曲げ、その日は戦いを傍観するのみ。負けが決まってから、逃げるために戦うという有様でした。

西軍で実際の戦いに参加したのは、3分の1程度です。あとは、傍観するか、動けずに手をこまねいているか。これでは、勝てません。

果たして、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長らの軍は壊滅。その他西軍の諸将は敗走していきました。

■毛利家所領安堵の約束をとりつけていた吉川広家でしたが、戦後、家康から難癖をつけられ大幅に減封させられてしまいます。毛利家の人たちは勝てた戦だったのにと地団太を踏んだが、あとの祭りです。

逃げ帰った薩摩の島津家は、家康に謝罪し、粘りに粘った交渉の末、本領安堵で決着します。

そして300年後、この時の恨みを忘れなかった毛利家(長州)と島津家(薩摩)が、徳川幕府を倒す勢力の中心になるのですが、それは別の話ですね。

■このように関ヶ原の戦いがたった一日で決着がついたのは、事前の情報戦、調略戦の結果だったといえます。

ここで裏切った小早川秀秋が悪いとか、吉川広家は卑怯だとか言うのはナンセンスです。

戦国時代の諸将にとって、最も重要なことは、家を存続させることです。

会社に置き換えてみてください。自分だけの命ではありません。何十、何百の従業員とその家族の命運が掛かっています。卑怯だとか、主義に反するとか言って会社をつぶしていたら、元も子もありません。

では、生き残るためには何を考えなければならないのか?

最も確実な手は「勝ち馬に乗る」ことです。

この場合、権威のある豊臣家に乗るか、あるいは実質的な実力者である徳川家に乗るか。

シリアスな決断を迫られます。

■その際、家族が別々の馬に乗る。という決断をしたのが、真田家でした。すなわち、父・真田昌幸、次男・信繁(幸村)親子は豊臣方に。長男・信之は徳川方につき、家の存続を図りました。

突拍子もないやり方に思えるかもしれませんが、これはまだはっきりしていてわかりやすい。

その他の諸将は、どちらかについていながら実質的には様子見です。

典型的なのが小早川秀秋です。寝返りの内応をしながらもぎりぎりまで迷っていました。秀秋が寝返る決断をしたのは、やはり東軍の勝ちは動かないと判断したからで、最後のダメ押しをしたことになります。

その秀秋の寝返りをみて、西軍の脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らが次々と寝返りました。彼らも慌てて勝ち馬に乗ったわけですな。

このようにどちらが勝つか知れない状況において、勝機がどう転んでもいいように準備をしておくというのは、家を存続するという大義の前では極めて合理的な行動です。

表には出てきませんが、実際には多くの武将が、裏では内通し保険をかけていたのではないかと想像します。

■そういえば、かつては徳川家康も、武田家と織田家に挟まれていた時代、両方に通じていた過去がありました。

織田信長は、武田家が強大であった頃は家康の力が必要だったので見て見ぬふりをしていたようですが、信玄が死んで武田家が弱ってくると、突如家康に難癖をつけてきました。武田家との窓口となっていた家康の正室と長男を処分せよというのです。

結局、覇者の命令には従わざるを得なかったのですが、家康にとって生涯忘れられない痛恨事となりました。

参考:織田信長はなぜ徳川家康に正室と嫡男の処分を命じたのか
http://www.createvalue.biz/column2/post-150.html

思うに、戦国時代中期は、一人立ちできる何人かの大大名と、そうではない小さな大名や豪族などが各地に存在していました。

一人立ちできる大名は、自ら「勝ち馬」になることを目指して動き、仕掛けていきます。その代表が、織田信長であり、豊臣秀吉です。勝てばいいのですが負ければ逃げ場はありません。すべてを失うリスクを背負っています。

それに対して、一人立ちできない諸将は「勝ち馬」を見極めて、それに乗らないと生きていけません。勝ち馬が負けてしまったら共倒れですし、勝ち馬の勘気をこうむってもつぶされてしまいます。これはこれでつらい立場です。

徳川家は、長い間、一人立ちできない小さな大名でした。だから大大名の動きや趨勢といったちょっとした風向きを常に気にしていなければ生きていけなかったのです。

そういう機微が、豊臣政権の元で超優秀な官僚であった石田三成にはなかったのかも知れません。そのあたりに西軍が敗れた理由がありそうです。

■そういえば、ネットでこんな記事がありました。

参考:「稀に見るケチ」徳川家康が天下を取れたワケ(東洋経済オンライン)
http://toyokeizai.net/articles/-/134333

えらい言われようですな。「稀に見るケチ」ですよ^^;

確かに家康は、経済オンチだと言われています。信長、秀吉のように経済振興をして税収を上げるという施策はできていません。だから領地をなるべく独り占めして農業からの上がりをかき集めようとしたのでしょう。結果として、徳川家は広大な領地を持つことになりました。

しかしこの記事の前半は、家康の「火事場泥棒戦略」をケチだと断罪しています。これはちょっと違うような気がします。

なるべく大国の影に隠れて生き残りを狙う家康の家督運営は、小大名としてはしごく真っ当です。武田家がほろんだ時、織田信長が倒れた時、どさくさに紛れて領地を奪ったのも、ローリスク・ハイリターンのきわめて優れたやり方です。

家康のやり方は、常にローリスク。リターンよりも、まずリスクを嫌う安全運転です。

織田信長から妻と長男を処分せよ。と言われた時も、一時の憤りやプライドに惑わされることなく、その命に従いました。

ある意味、これほど頼りになる君主はいません。自分の家族の命よりも「家」の存続を優先したわけですから。

「生き残る」という目的を、忠実に求めた末に、天下人の地位を拾うという結果を得たのです。稀に見る辛抱強さと稀に見る幸運を併せ持つ奇跡のような武将です

私は大阪人ですから、本音をいえば石田三成や真田幸村に勝ってほしかったと思うのですが、こと経営者としてみる限り、やはり家康は一つの理想像であると感じます。

■そんな生き方を貫いてきた家康ですから年季が違います。関ヶ原の戦いが始まる頃には、絶対勝てるという感触をつかんでいたことでしょう。

これほどの戦いが半日で終わってしまうというのは多くの武将にとって想定外だったようです。

信濃の真田昌幸は、戦では勝ったにも関わらず、高野山に蟄居させられます。

密かに天下を狙っていたといわれる黒田如水や、伊達正宗も、拍子抜けです。長引く混乱に乗じて天下に打って出ようとしていたわけですから。

ともかく、関ヶ原の戦いの三年後には、徳川家康は江戸を拠点に幕府を開きます。関ヶ原の戦いの際には「石田三成と戦うのであって、豊臣家と戦うのではない」と強弁していた家康がわずか三年で豊臣家から政権を簒奪したのですから、やはり勝った者が正義という世界です。

そして家康は最後の仕事として、豊臣家を滅ぼすためになりふり構わなくなっていきます。

それが大坂の陣であり、これからの「真田丸」のハイライトです。

それは、また別の機会にお話ししたいと思います。


(2016年9月22日メルマガより)



■NHKの大河ドラマ「真田丸」はご覧になっていますか?

私は、第1回目から欠かさず観ております^^

ここ数年、大河ドラマには食指が動かなかったのですが、今回は1回目の放送からのめり込んでしまいました。

とにかく面白い!

近年のドラマの中でも出色のものではないでしょうか。

■ご存じのない方のために説明いたします。

「真田丸」とは、徳川・江戸幕府と豊臣家が戦った大坂冬の陣において、豊臣家側の武将・真田幸村(信繁)が大坂城外堀の外に築いた出城のことです。

真田幸村は、後世「日本一のつわもの」と呼ばれるようになる著名な武将ですが、大坂の陣当初は無名の一浪人でした。

むしろ、当時は、真田幸村の父・真田昌幸や兄・真田信之の方が知られていました。

幸村の父・真田昌幸は、信濃の小国の首領として、徳川、北条、上杉といった大国を翻弄しながら生き抜いた智将です。実際の戦いにおいても、徳川の大軍を二度にわたって撃退するなどの戦巧者でした。

また兄・真田信之は、関ケ原の戦いにおいて、昌幸・幸村と袂を分かって徳川方につき、真田家の家督を守り抜いた実力者です。

大河ドラマのタイトル「真田丸」は、大坂冬の陣における出城を示すと同時に、真田昌幸、信之、幸村ら真田一族の結束を一艘の船にたとえたものです。彼らが、戦国終盤の時代、いかにして生きたのかを描きます。

■戦国時代というのは、ドラマの宝庫です。豊臣秀吉や徳川家康といった天下人を向こうにまわして知恵と勇気で生きていく一家の話が面白くないはずがない。

そう思って観始めた大河ドラマでしたが、期待以上のものでした。

NHKの大河らしく配役が豪華で芸達者です。これまでの歴史ドラマではあまり目立たない人物なども、俳優がそれぞれの見せ場を作ってくれています。

たとえば、西村雅彦が演じた室賀正武なる武将。こちらは、真田昌幸と同じ信濃の豪族ですが、昌幸を殺そうとして返り討ちに合う人物です。その逸話は劇的であるものの、それ以外は目立たない人物のはず。

が、「真田丸」において、室賀正武は「黙れ、小童!」の決め台詞とともに大いに活躍し、人気を博しました。

なにしろ脚本が三谷幸喜。大河らしからぬ軽妙さや大胆な展開が一筋縄ではいきません。

特に前々回(9月11日放送)の関ケ原の描き方には驚きました。

■関ケ原の戦いというと、戦国時代終盤のハイライトともいうべき出来事です。

豊臣政権の存続を願う石田三成側と、政権簒奪を狙う徳川家康側、日本中の武将がどちらかの陣営に分かれて戦いました。この出来事だけで物語が一つできるほどの大事件です。

しかし、今大河ドラマにおいては「西軍が負けました」という台詞一つで終わらせてしまったのです。

なんたる肩透かし!

関ケ原の戦いは、真田一族は参加してないから描かないということなんでしょうかね。いや、関ケ原にまで行きつく石田と大谷のドラマはかなり丁寧に描かれていましたから、そういうわけでもないような。

おかげで大人気だった石田三成(山本耕司)も、大谷吉継(片岡愛之助)も最後の見せ場なく消えていきました。

たぶん三谷幸喜という人は、飽きっぽくて興味のなくなったことには冷淡なんですよ。ひどい別れ方をする人なんでしょうね。いや、そんなことはどうでもいい...

■ということで代わりに私が関ケ原についてお話しいたします。

関ケ原とは、岐阜県不破郡にある山間の谷です。古来、多くの街道が通る要衝の地でした。

豊臣秀吉亡き後、天下人らしい振る舞いをする徳川家康に、危機感を抱いた石田三成が挙兵したのは西暦1600年7月のことでした。

その時、家康は、上杉征伐準備のため江戸にいたのですが、三成側が伏見城を攻めたとの報を聞き、大坂へ向かいます。

この時、家康のもとには、上杉征伐のため多くの大名が従っていました。なんと間の悪い。その状況で、家康のもとを離れて、石田の味方をするわけもいかず、そのまま多くが家康側につきます。その中には、豊臣恩顧の大名も多く含まれていました。(もっとも彼らは石田三成と険悪な関係にあったと言われています)

大坂へ向かおうとする東軍(徳川側)と、迎え撃つ西軍(石田側)が関ケ原で対峙したのが、9月15日。

両軍合わせて17万を超す大軍勢が狭い谷間にひしめくことになりました。

兵数は東軍の方が若干優勢ですが、迎え撃つ西軍は、戦う上で優位な土地に陣を敷いていました。陣の形だけを見れば、西軍が圧倒的優位です。

ところが、そんな状況にも関わらず、東軍はわずか半日で圧勝してしまいます。

なぜか。西軍に多くの裏切りがあったからです。

■寝返り行為によって最後の引き金を引いたのは、豊臣秀吉の親族である小早川秀秋でした。地の利を得て、優勢に戦いを進める西軍の脇腹に、寝返った小早川軍が雪崩れ込みました。

寝返りを予測していた大谷吉継はこれを一度は食い止めるも、それに呼応した西軍の諸将複数が寝返ったために、西軍は総崩れとなりました。

なんともあっけないことです。

もともと小早川秀秋は、晩年の秀吉に不満があったとされています。老いてから嫡男秀頼を得た秀吉は、その行く末を心配するあまり、憂いになりそうな人物を排していきました。甥の豊臣秀次は切腹させられました。秀秋自身も小早川家に養子に出された上、よくわからない理由で減封されたりしています。ちなみに秀吉の死後、家康たちのとりなしにより、領地は回復させられました。

だから実質的には、小早川秀秋は、豊臣家よりも徳川家康に恩義を感じていたとも言われています。

■しかし、裏切ったのは小早川秀秋だけではありません。西軍最大の誤算は、西軍の総大将毛利家の有力家臣吉川広家が東軍に内応していたことです。吉川軍が動かなかったので、その背後に陣を敷いていた毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家らは、戦いに参加することができませんでした。

またはるばる鹿児島から駆け付けた島津義弘も、三成の使者が無礼だとか言ってへそを曲げ、その日は戦いを傍観するのみ。負けが決まってから、逃げるために戦うという有様でした。

西軍で実際の戦いに参加したのは、3分の1程度です。あとは、傍観するか、動けずに手をこまねいているか。これでは、勝てません。

果たして、石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長らの軍は壊滅。その他西軍の諸将は敗走していきました。

■毛利家所領安堵の約束をとりつけていた吉川広家でしたが、戦後、家康から難癖をつけられ大幅に減封させられてしまいます。毛利家の人たちは勝てた戦だったのにと地団太を踏んだが、あとの祭りです。

逃げ帰った薩摩の島津家は、家康に謝罪し、粘りに粘った交渉の末、本領安堵で決着します。

そして300年後、この時の恨みを忘れなかった毛利家(長州)と島津家(薩摩)が、徳川幕府を倒す勢力の中心になるのですが、それは別の話ですね。

■このように関ヶ原の戦いがたった一日で決着がついたのは、事前の情報戦、調略戦の結果だったといえます。

ここで裏切った小早川秀秋が悪いとか、吉川広家は卑怯だとか言うのはナンセンスです。

戦国時代の諸将にとって、最も重要なことは、家を存続させることです。

会社に置き換えてみてください。自分だけの命ではありません。何十、何百の従業員とその家族の命運が掛かっています。卑怯だとか、主義に反するとか言って会社をつぶしていたら、元も子もありません。

では、生き残るためには何を考えなければならないのか?

最も確実な手は「勝ち馬に乗る」ことです。

この場合、権威のある豊臣家に乗るか、あるいは実質的な実力者である徳川家に乗るか。

シリアスな決断を迫られます。

■その際、家族が別々の馬に乗る。という決断をしたのが、真田家でした。すなわち、父・真田昌幸、次男・信繁(幸村)親子は豊臣方に。長男・信之は徳川方につき、家の存続を図りました。

突拍子もないやり方に思えるかもしれませんが、これはまだはっきりしていてわかりやすい。

その他の諸将は、どちらかについていながら実質的には様子見です。

典型的なのが小早川秀秋です。寝返りの内応をしながらもぎりぎりまで迷っていました。秀秋が寝返る決断をしたのは、やはり東軍の勝ちは動かないと判断したからで、最後のダメ押しをしたことになります。

その秀秋の寝返りをみて、西軍の脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らが次々と寝返りました。彼らも慌てて勝ち馬に乗ったわけですな。

このようにどちらが勝つか知れない状況において、勝機がどう転んでもいいように準備をしておくというのは、家を存続するという大義の前では極めて合理的な行動です。

表には出てきませんが、実際には多くの武将が、裏では内通し保険をかけていたのではないかと想像します。

■そういえば、かつては徳川家康も、武田家と織田家に挟まれていた時代、両方に通じていた過去がありました。

織田信長は、武田家が強大であった頃は家康の力が必要だったので見て見ぬふりをしていたようですが、信玄が死んで武田家が弱ってくると、突如家康に難癖をつけてきました。武田家との窓口となっていた家康の正室と長男を処分せよというのです。

結局、覇者の命令には従わざるを得なかったのですが、家康にとって生涯忘れられない痛恨事となりました。

参考:織田信長はなぜ徳川家康に正室と嫡男の処分を命じたのか
http://www.createvalue.biz/column2/post-150.html

思うに、戦国時代中期は、一人立ちできる何人かの大大名と、そうではない小さな大名や豪族などが各地に存在していました。

一人立ちできる大名は、自ら「勝ち馬」になることを目指して動き、仕掛けていきます。その代表が、織田信長であり、豊臣秀吉です。勝てばいいのですが負ければ逃げ場はありません。すべてを失うリスクを背負っています。

それに対して、一人立ちできない諸将は「勝ち馬」を見極めて、それに乗らないと生きていけません。勝ち馬が負けてしまったら共倒れですし、勝ち馬の勘気をこうむってもつぶされてしまいます。これはこれでつらい立場です。

徳川家は、長い間、一人立ちできない小さな大名でした。だから大大名の動きや趨勢といったちょっとした風向きを常に気にしていなければ生きていけなかったのです。

そういう機微が、豊臣政権の元で超優秀な官僚であった石田三成にはなかったのかも知れません。そのあたりに西軍が敗れた理由がありそうです。

■そういえば、ネットでこんな記事がありました。

参考:「稀に見るケチ」徳川家康が天下を取れたワケ(東洋経済オンライン)
http://toyokeizai.net/articles/-/134333

えらい言われようですな。「稀に見るケチ」ですよ^^;

確かに家康は、経済オンチだと言われています。信長、秀吉のように経済振興をして税収を上げるという施策はできていません。だから領地をなるべく独り占めして農業からの上がりをかき集めようとしたのでしょう。結果として、徳川家は広大な領地を持つことになりました。

しかしこの記事の前半は、家康の「火事場泥棒戦略」をケチだと断罪しています。これはちょっと違うような気がします。

なるべく大国の影に隠れて生き残りを狙う家康の家督運営は、小大名としてはしごく真っ当です。武田家がほろんだ時、織田信長が倒れた時、どさくさに紛れて領地を奪ったのも、ローリスク・ハイリターンのきわめて優れたやり方です。

家康のやり方は、常にローリスク。リターンよりも、まずリスクを嫌う安全運転です。

織田信長から妻と長男を処分せよ。と言われた時も、一時の憤りやプライドに惑わされることなく、その命に従いました。

ある意味、これほど頼りになる君主はいません。自分の家族の命よりも「家」の存続を優先したわけですから。

「生き残る」という目的を、忠実に求めた末に、天下人の地位を拾うという結果を得たのです。稀に見る辛抱強さと稀に見る幸運を併せ持つ奇跡のような武将です

私は大阪人ですから、本音をいえば石田三成や真田幸村に勝ってほしかったと思うのですが、こと経営者としてみる限り、やはり家康は一つの理想像であると感じます。

■そんな生き方を貫いてきた家康ですから年季が違います。関ヶ原の戦いが始まる頃には、絶対勝てるという感触をつかんでいたことでしょう。

これほどの戦いが半日で終わってしまうというのは多くの武将にとって想定外だったようです。

信濃の真田昌幸は、戦では勝ったにも関わらず、高野山に蟄居させられます。

密かに天下を狙っていたといわれる黒田如水や、伊達正宗も、拍子抜けです。長引く混乱に乗じて天下に打って出ようとしていたわけですから。

ともかく、関ヶ原の戦いの三年後には、徳川家康は江戸を拠点に幕府を開きます。関ヶ原の戦いの際には「石田三成と戦うのであって、豊臣家と戦うのではない」と強弁していた家康がわずか三年で豊臣家から政権を簒奪したのですから、やはり勝った者が正義という世界です。

そして家康は最後の仕事として、豊臣家を滅ぼすためになりふり構わなくなっていきます。

それが大坂の陣であり、これからの「真田丸」のハイライトです。

それは、また別の機会にお話ししたいと思います。


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