コラム

織田信長の戦略

(2006/11/23メルマガより)

■童門冬二氏の「織田信長 破壊と創造」は、戦国時代の武将である織田
信長を現代のビジネスリーダーを見るような視点から捉えた異色作で、非常
に面白い小説です。

■私も織田信長の話は、セミナーの題材によく使います。最も使うのは有名
な“桶狭間の戦い”です。

兵力数に劣る軍隊が、圧倒的な軍事力を誇る強国を相手にどうやって戦うか、
という難題に対する模範解答がそこにあるからです。

展開のドラマチックさもさることながら、織田信長の軍事プランの見事さは、
ランチェスター戦略のいう「弱者の戦略」を雄弁に語っています。

■この小説には、その織田信長が単なる軍略家だっただけではなく、革命家
といってもいい存在であったことが書かれています。

例えば…

●“天下布武”というビジョン

●着実に段階を上がる戦略展開

●目標に最短で到達するためのプロセス管理

●兵農分離という組織改革

●苛烈な行動力を伴った強力なリーダーシップ

●徹底した能力主義による労務管理

●成果に加担しないもの(旧習や制度など)を潔く排除する効率性

●貨幣経済への着目(楽市楽座の開設など流通への理解)

●文化振興への意欲(南蛮文化への興味や茶会の推進)

などです。

■もちろん軍事面でもその天才性は遺憾なく発揮されています。

ただ、奇策を弄して勝ちを拾うような戦いばかりを続けたわけではありませ
ん。

基本的には、外交によって四方の守りを固めた上で、標的を1つに絞り“各
個撃破”することで、目的に近づいていっています。

例えば美濃を攻略する際には、三河の徳川と固い同盟を結び、後方の憂いを
無くした後に美濃に集中しています。

あるいは、足利義昭を伴って京へ上る際には、武田や上杉に最大限の誠意を
示し邪魔されないようにして、近江道制圧に集中しています。

つまり、戦術面では様々な創意工夫を見せながらも、大きな流れの中では、
実にオーソドックスな「弱者の戦略」を展開していることが分かります。

■おそらく戦国時代に軍事的にもっと強い武将は存在したのに信長が覇者た
りえたのは、その行動の「合目的性」の明確さだったと思われます。

要するに、土地を守るという因習を捨てて、天下布武という目的のために一
気に戦略展開したのは、武田信玄でも上杉謙信でも毛利元就でもなく、織田
信長だけだったというわけです。

その最短距離を行く様は、唖然とするほどです。。

■ただし京都に入ってからの信長は、全方位に軍事展開をするハメになって
しまいます。

信長の「目的」が、世間にマークされてしまい有力武将の様々な思惑に火を
つける結果になってしまったようです。石山本願寺を中心とした朝倉、浅井、
毛利、武田、上杉といったビッグネームらの包囲網に捉えられてしまいます。

さすがの信長も「強者の戦略」を展開するには早すぎたようで、苦戦に苦戦
を重ねることとなります。

このあたりから信長の行動に狂気が宿りはじめ、まるで人格が崩壊しかかっ
ているかのような言動が目立つようになります。(あたりかまわぬ猜疑心、
敵将への異常な仕打ち、家臣に対する冷酷さなど)ただでさえ急膨張してギ
グシャクしていた内部組織に不穏な陰を落とします。

あの忠臣、豊臣秀吉でさえ「信長公は勇将であったが良将でなかった」と評
しているほどです。

■とはいうものの、その難局もどうにか乗り切り、徐々に全方位戦略が効を
奏し始めます。ある意味、信長の作ったシステム(組織や経済運営)が機能
した結果だといえます。

しかし、ようやく「強者の戦略」をモノにしようかという頃合に、中途採用
から№2にまで上りつめ能力主義の象徴のような存在だった明智光秀に討た
れたのは皮肉なことです。

その後を引き継いだ豊臣秀吉や徳川家康には、信長ほどの国家観はなかった
ようなので残念なことです。

■日本人離れしたスケールと行動力で時代を席巻し、最後は神話の英雄のよ
うに悲劇的に倒れてしまった織田信長。

人々の興味を誘って止まないので、これからも新説奇説が現れては消えてい
くんでしょうね。

新しい話がありましたらまた書かせていただきますので^^

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