コラム
経営で必要な知恵はすべて三国志で学んだ
(2008年10月9日メルマガガより)
■いつかもメルマガで三国志をネタに書いたことがありました。
参照→「志が歴史を変えた~三国志に寄せて」
その時は「三国志の話を知らない人にはわかりにくい」と不評でした^^;
だから今回はなるべく分かりやすく書きたいと思います。
■三国志は、中国の後漢が崩壊し、次の国家に統一されるまでの戦乱の約
100年間の歴史をもとにしたお話です。
1000人以上の登場人物が名と命をかけて縦横無尽に活躍する比類なきスケー
ルの物語です。
歴史上の事実をもとにしていますが、後世に「三国志演義」として編纂され
た折に、いろいろな脚色がなされています。これに対して、一般に歴史に忠
実であると言われるテキストを「三国志正史」と呼びます。
西暦でいうと200年代頃。日本では邪馬台国の頃です。その頃に、中国には
これだけ優れた文化があったことにまず驚きます。
■後漢が崩壊し、群雄が覇を競った時代。その中で成立したのが、魏、蜀、
呉の三国でした。
魏を打ち立てたのが、乱世の姦雄といわれた曹操(そうそう)。
蜀を打ち立てたのが、三国志演義の主人公である劉備(りゅうび)。
呉を打ち立てたのが、もっとも長生きする孫権(そんけん)です。
しかも、最終的に中国を統一したのは、この三国のいずれでもないのだから、
皮肉な結末です。
歴史上の出来事といえ、なんと劇的な物語なんでしょうか。
■この中で最も早く頭角を現したのが曹操です。
彼は、戦乱の時代が来たと知ると、すぐに挙兵し名をあげます。
三国志演義の中では、悪者に描かれる曹操ですが、この人物が類稀なリーダ
ーシップを持った人物であったことは確かです。
抜群の軍事能力と非情ともいえる指導力で勢力を拡大した曹操は、袁紹(え
んしょう)という強敵に挑みます。
名家出身の袁紹は、各地の豪族の支持を得て、勢力を拡大していました。調
整能力に長けた人格者であったようですが、巨大戦力を一つにまとめるリー
ダーシップに欠けていたようです。
一方の曹操は、慣習を無視して、家柄に関わらず能力のある者をとりたてる
能力主義を打ち出していました。
そのため、曹操軍の能力ある者の結束は突出していました。
兵法に通じた曹操軍は、ゲリラ戦や奇襲戦など「弱者の戦略」を駆使して、
袁紹軍を撃破します。
負けた袁紹に各地の豪族が愛想を尽かして離散してしまったために、巨大勢
力は一瞬にしてなくなってしまったのです。
このことからも、変革の時代にどのような組織が強いかを伺い知ることがで
きます。
■中国北部を平定した曹操は、勢いを得て、南下します。
そこにいたのが孫権を君主とするグループでした。
■孫権の父、孫堅(そんけん)は、後漢時代の将軍です。戦乱の初期には、
曹操よりも大きな戦功をあげていましたが、早くに戦死します。
その後を引き継いだのが、若い長子である孫策(そんさく:孫権の兄)でし
た。
いくら孫堅の息子といえども、戦乱の時代に力のない者に従う者はいません。
ただ、孫策には周瑜(しゅうゆ)という軍師がついていました。
■周瑜は孫策と同年で、親友ともいえる間柄でした。
周瑜は名家の出身であり、地元の有力豪族にも一目置かれる存在でした。
その彼が、孫策を積極的に支持したために、地元の豪族も従うこととなり、
孫策は地盤を得ることができたのです。
孫策の覇権は、まさに周瑜との共同作業で成し遂げられたのです。
■三国志は、英雄たちの物語であると同時に、軍師たちの物語でもあります。
その最初に輝きを放つ人物こそ周瑜に他なりません。
周瑜とはどのような人物だったのか。。。
■周瑜はまず多くの史書にその美貌を称えられています。
三国志正史にも「姿貌あり」と書かれていますから、彼が美しい青年であっ
たことは間違いがないでしょう。
しかも音楽の才能に優れた名家の貴公子です。
あるいは孫策よりもカリスマ性を持っていたのかも知れません。
もちろん兵法に通じており、自ら先頭に立って戦う極めて実践的な軍事リー
ダーでもありました。
ちなみに君主である孫策も容姿端麗であったと言われますので、この軍勢は
さぞ画になったことでしょうな^^
■小覇王と称された孫策はわずか26歳で没します。後を託されたのが、弟の
孫権(後の呉王)でした。
この孫権に対しても、周瑜は変わらぬ忠誠を誓ったために、偉大な君主の死
に際しても、大きな混乱は起きなかったということです。
そこへやってきたのが、最大の危機である曹操の到来でした。。。
■孫権は、兄の孫策から「覇権を争うのではなく、周囲と協調せよ」と言わ
れていました。
もともと豪族の集合体である孫グループは、君主への忠誠よりも地域を守る
意識の強い集団です。したがって曹操への帰順を勧める声が大勢を占めてい
ました。
しかし、徹底抗戦を主張したのが、周瑜その人でした。
「我々は曹操の下でも官職をもらえるが、主君は身の置き場もないだろう」
と彼は主張します。
周瑜には、孫軍団を一から育ててきたという自負があったのでしょう。
また目的のためには手段を選ばない曹操のやり方に嫌悪感を抱いていたのか
も知れません。曹操は見せしめのために町全体を皆殺しにするぐらい平気で
やる人物でした。
周瑜の忠義に厚い主張により、孫グループは、交戦で一致団結します。
■しかし、いかんせん多勢に無勢。
曹操軍20万に対して、孫権軍3万。(一説には80万vs5万)とも言われます。
普通に戦っては勝ち目のない戦いでした。
■ここで孫権は極めて戦略的な決断を行います。
それは、各地を転戦していた軍事グループである劉備(後の蜀王)と同盟す
ることです。
まだ領地を持たない劉備とイーブンの同盟をするのも異例ですし、あろうこ
とか、赤壁の戦いの後には、領地を貸し与えることまで行っています。
この戦略は、曹操の軍事ベクトルを分散させるのが目的です。
孫権の思惑を知った曹操が最も焦燥したということですがら、まさに的を得
た戦略だったのです。
まだ若い孫権にこのような戦略的センスがあったことが驚きです。
一説には、魯肅(ろしゅく)という軍師(周瑜の弟分)の策であると言われ
ます。あるいは、劉備の軍師である諸葛亮の策を魯肅が採用したとも言われ
ます。(魯肅と諸葛亮は旧知の間柄でした)
曹操は劉備を買っていました。それと同様、魯肅も劉備の実力を高く買って
いました。曹操と対抗するには、三つのグループが牽制しあって均衡を保つ
ことが効果が高いと判断したのです。
これが有名な「天下三分の計」です。
■しかし周瑜は孫権の戦略を快く思っていなかったようです。
周瑜はあくまで、曹操と一騎打ちで勝てると踏んでいました。
曹操軍20万といえども、川の上の戦いには長けていません。
事実、赤壁における最初の戦いで、周瑜の水軍は勝利します。
川の上では孫軍はあきらかに有利でした。
■そこで、曹操軍は持久戦に持ち込みます。
圧倒的な戦力を持つ者が持久戦を行った時、弱者には打つ手が限られます。
周瑜がとった戦法は、奇襲でした。
袁紹との戦いで曹操がとった戦法を、周瑜が曹操に仕掛けたのです。
■この時の周瑜の戦術はあまりにも鮮やかです。
偽の裏切り情報で曹操を油断させ、夜中に空船を送り込みます。その船には
火が仕掛けてあり、停泊する曹操軍の手前で炎上させたのです。
慣れない船上生活ゆえ各船をお互い縛って安定させていた曹操船団に火が移
り、大混乱となります。
折悪しく、昨日までの追い風から向かい風に風向きが変わったために、火は
煽られて地上の陣地に燃え移ります。そこへ周瑜軍が襲い掛かったものだか
ら、曹操軍は全軍壊滅状態となってしまいます。
もちろん、風向きが突然変わることを計算して、地の利を最大限に活かした
周瑜の見事な作戦です。
■曹操の20万軍団は壊滅し、撤退を余儀なくされます。これまで破竹の勢い
で突き進んできた曹操が始めて大打撃を受けたのです。
この戦いによって、曹操の手による中国統一はなくなったと言っていいでし
ょう。
事実、これ以降、曹操の軍事行動は慎重になり、無理な侵略行動をすること
はなくなりました。
彼が生きている間は、ひたすら自国の国力増強に努めたのです。
■ただし戦略的に言えば、曹操に本当に打撃を与えたのは「天下三分の計」
でした。
根無し草だった劉備は中国西部に地盤を築き、西から曹操に脅威を与える存
在となりました。
また南には孫権の軍団が控えています。
いくら強大な曹操といえども、簡単に制圧できる状況ではなくなりました。
まさに戦略が、国の存亡を決めたのです。
この後、孫権は呉を建国します。魏、蜀、呉の中で、最後まで生きながらえ
たのは呉でした。。。
■赤壁の戦い以降、周瑜は1年をかけて曹操の残党を一掃しました。
流れ矢に当たって血を吐きながらも、前線に立ち続けたために、敵は恐れを
なして撤退しました。
ただし、この時の無理がたたって周瑜は36歳の若さでこの世を去ります。
周瑜がいなければ、孫グループが中国南部に覇を唱えることはできなかったはず。
まさに、呉の創世記を支えた大物軍師の早すぎる死でした。
劉備も諸葛亮も、周瑜の戦いぶりには目を見張りました。
したがって、早々に周瑜が退場したことに安堵したのが本音でしょう。
■周瑜はしかし、劉備や諸葛亮のことを恨んでいました。
彼は最後まで曹操と一騎打ちすることを望んでいました。彼はいわば「天下
二分の計」を心に持っていたのです。
周瑜にとって劉備など、いつでも吹き飛ばせるような存在に思えていたのか
も知れません。
ところが、劉備はそのようなヤワな人物ではありませんでした。借り受けた
領地を足がかりに、素早く地盤を確保していきます。
周瑜の望みは、事実上絶たれていたのです。
あるいは、周瑜こそ、劉備とその軍師である諸葛亮の本当の力を知って、警
戒していたのでしょう。だから、戦略的には無理のある「天下二分の計」を
最後まで主張していたのかも知れません。
三国志演義の中では、周瑜は策略で諸葛亮を亡き者にしようと謀りますが、
ことごとく見抜かれて失敗します。
その死に際には「天はなぜ周瑜というものがありながら、孔明を使わしたの
だ!」と天を呪ったということです。
■三国志の物語はあまりにも奥深く、尽きることがありません。
今回は映画にあわせて「赤壁の戦い」と軍師周瑜を中心に書かせていただき
ました。
あと2回。諸葛亮(孔明)と司馬懿(仲達)という二人の軍師の物語が残っ
ています。
またいつか、機会がありましたら書かせていただきます。
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■「週刊東洋経済」によると、映画「レッドクリフ」の公開を機に、世界中
に三国志ブームが来るのではないかと書かれていました。
確かに、三国志はビジネスチャンスの宝庫です。
出版、映画、ゲームはもとより、キャラクタービジネスやビジネス理論の分
野でも有効なコンテンツです。
なにより、中国、欧米、日本という世界中で親しまれている物語ですから、
市場規模が極めて巨大です。
このような美味しいビジネスチャンスが到来しているんですなあ。
皆さん、これからは三国志の時代ですよ!