コラム
勝海舟が坂本龍馬に伝えたもの
(2010年4月22日メルマガより)
■ついに観てしまいました。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」です。
意識して見ないようにしてきたのですが…^^;
ガマンできなかった。
■私は1ヶ月ほど前からtwitterを始めたのですが、意外と言えるほど「龍馬
伝」の話題で盛り上がっています。
孫正義さんなど日曜日になると「うおーーーー!」とか叫んでいますからね^^
幕末ファンの人って多いんですよねーー。
そんな人たちを見て見ぬふりをしながらスルーしていたのですが、とうとう
捕まってしまった。
前回の題名が「勝麟太郎」
うおおおおおおーーーーーーー!
隠れ幕末ファンの私としては見ないわけにはいきませんでした。
■勝麟太郎。長じてからは勝義邦(後に安芳)。通称勝海舟。
幕末の志士たちの中にあって、日本国の成立に、これほど大きな役割を果た
した人はいません。
作家の司馬遼太郎は、徳川幕府の終焉である江戸城無血開城を「世界でも類
を見ない崇高な革命」であると述べています。(原典が見つからないので、
正確な言い回しではないかも知れませんが…)
その立役者となったのが“家康以来の傑物”と称された第15代将軍徳川慶喜。
維新の大人物、西郷隆盛。そして慶喜から全権を委任された幕臣勝海舟です。
もし、徳川慶喜が徹底抗戦をしていたら。もし、西郷隆盛が降伏を許さず、
徹底攻撃をしていたら。
その後の日本がどうなっていたか知れません。
■今回のテレビを観てまず驚いたのが、勝海舟を演じる武田鉄也のミスキャ
ストぶり!
これは凄まじいものがありますな^^;
一所懸命、べらんめえ調で話すのですが(ヨウ、ヨウ、と言い過ぎてラッパ
ーのようだと評されていましたぞ)あんな年老いた勝海舟があっていいもの
だろうか。
まあ、それはいいとしましょう。。。
■ドラマの最初の方に、大泉洋演じる団子屋の長次郎なる人物が出てきます。
土佐から出て、勝海舟の門下生として勉強している人物です。
一介の町人に過ぎなかったこの男は、偶然、岩崎弥太郎が発した「おれは江
戸で勉強した頭で勝負するんだ」という言葉に感化されて、居ても立っても
いられずに、江戸に出てきたのです。
もちろん当時のことですから、命を賭けた行動です。
私は、このシーンを観るだけで不覚にも涙を流してしまいました。。。
ちなみに近藤長次郎は、後に非業の死を遂げる実在の人物です。
「私にも志がありますから」
なんと尊い言葉でしょうか。
何の取り柄もない自分が、勉強をしたいと思い立った時のことを思い出して
しまいました。。。
■この番組の後、私は司馬遼太郎の名著「明治という国家」をひとしきり読
み直して、夜中まで眠れませんでした。
こうなることが分かっていたから「龍馬伝」を観るのを避けていたんですが
ね。まんまとはまってしまいました。
こうなった以上は仕方がありません。
今回のメルマガは、予定を変更して、勝海舟のことを書かせていただきます。
ただし、内容は司馬遼太郎の「明治という国家」の受け売りです。ご容赦く
ださい。
■勝海舟は、後に自分が知っている人々の中で最大の人物は、坂本龍馬と西
郷隆盛だと評しています。
しかし、勝海舟と出会った頃の坂本龍馬は、ただの素朴な青年でした。
熱く感情を昂らせて、幕臣の勝を斬ってやろうぐらいの勢いでやってきたの
ですが、勝海舟の人物に触れて、すっかり感化されてしまいます。
最も親しい姉に「日本一の勝先生の門下生になった」と大喜びで手紙を送っ
ているぐらいですから、純朴ではないですか。
後に尋常ならざる人物になっていく坂本龍馬も最初は可愛いものだったんで
すね^^
■龍馬は勝にこう聞いたそうです。
「(初代大統領)ワシントンの子孫は今、何をしておりますか」
勝は「下駄屋をしているか、靴屋をしているか、おれは知らん」
坂本にすれば、大統領のことを将軍のようなものだと考えていたので、それ
が不思議でなりません。
「では、アメリカの大統領は普段どんな心配をしているのですか?」
すると勝は「お針子さんの給料の心配などもしているのだ」と答えたそうで
す。
まるで子供に教え諭すような言い方ですし、必ずしも正確な答えにはなって
いませんが、龍馬はそれだけで、アメリカ政府と江戸幕府の体制の違いを理
解するような頭のよさがあったようです。
勝の偉大さは、誰もが藩や幕府という範疇でしか発想できない時代、幕臣と
いう立場にありながら「日本国」という概念を強く意識していたことです。
それが勝のスケールの大きな思想の源であり、行動の原点でした。
そして、坂本龍馬にもその思想は受け継がれ、幕末期に、他に類を見ない発
想と行動力を生むことになるのです。
■では、勝海舟という人物はいかにして、そのような見識を持つようになっ
たのでしょうか。
勝海舟の曽祖父は、今の新潟県柏崎あたりの貧農に生まれた盲人でした。
頭のよかったこの人は、江戸に出て、高利貸しとして財を成します。当時の
江戸幕府は、盲人の保護に熱心でその恩恵を受けたようです。いい政府です
ね。
この人は、その財で、武家の地位を買いとって自分の子供に男谷家を興させ
ます。これも驚きですね。当時の階級制度には、このような風穴があったわ
けです。
男谷家の三男・小吉が養子に出された先が、貧しい無役の旗本である勝家で
した。
■小吉の長男が勝麟太郎です。
だから、いわば最下層の武士の身分であり、とても幕臣と呼べるような家柄
ではありません。
しかし頭のいい勝麟太郎は、蘭学(西洋学)を学んで、出世の武器にしよう
とします。
転機が訪れたのは、30歳の時。ペリー来航騒ぎの中で、仕様に困った幕府
は、諸大名から町人にまで意見書を募ります。
この時、勝麟太郎の意見書が老中の目にとまったことから、念願の役入りに
つながります。
ほんの小さなチャンスを自ら掴み取ったわけですね。
■オランダ語が出来る勝は、オランダが行う海軍教育研修の一員として選ば
れ、長崎の伝習所に派遣されます。
その時、後にオランダの海軍大臣となるカッテンディーケなる人物が、若い
海軍中佐として教師団の団長を勤めていました。
彼は、後の回想録で、この当時の勝の聡明さを手放しで褒めています。単に
頭がいいだけではなく、世事に強く、何事にも処理能力が非常に高かったと
いいます。
勝が西洋の国の政治や軍事体制について詳細かつ深い見識を得ることができ
たのは、この時ではなかったかと推察されます。
好奇心旺盛な勝は、考えうる限りの質問をカッテンディーケに投げかけたこ
とでしょう。カッテンディーケも知っている限りのことをこの聡明な若者に
伝えたはずです。
この時のカッテンディーケとの濃密な時間が、勝に与えた影響は計り知れな
いと司馬遼太郎は言っています。
これはまるで、後の、勝海舟と坂本龍馬の関係のようではありませんか。
■しかし、勝海舟は、敵も多い人物でした。
いわゆる政敵というだけではありません。
(政治的な立場が違えば対立するのは当たり前ですよね)
明治維新後も、勝を毛嫌いし、執拗に批判する者も多かったようです。
その一人が、明治の代表的思想家である福沢諭吉です。
福沢によると、勝は、幕臣の立場で幕府を終焉させながら、明治政府から役
職ももらって高い地位にいる。それは倫理的におかしい。というわけです。
もっとも福沢の批判の根底には、個人的な不快感があったというが、司馬遼
太郎の見方です。
実は、勝と福沢は、ごく若い頃に一緒の船に乗って長旅をしたことがありま
した。
これが、今回の「龍馬伝」でも話題になっていた咸臨丸(かんりんまる)の
航海です。
■咸臨丸の航海は、アメリカとの通商条約締結の記念として企画されたイベ
ントでした。
司馬遼太郎の「明治という国家」は、この時の日本の使節団が、ブロードウ
ェイを行進したというエピソードから始まります。
航海の主役は、アメリカの軍艦で、使節団はこちらに乗っていました。だか
ら、小さな咸臨丸は、万が一の時の予備として、あるいは、日本にも航海に
耐えうる船があるんだよ、という面子のために航海に駆り出されたようなも
のです。
咸臨丸の艦長役に抜擢されたのが、勝海舟でした。37歳の時です。
この頃には、勝の優秀さは幕府内でも知れ渡っていました。
日本の威信を賭けたイベントの主役になるというのは、身分の低い勝からす
れば大変なことです。
まさに一世一代の晴れ舞台です。
ところが、航海直前になって、咸臨丸には「軍艦奉行」という役柄の者が乗
り込むこととなりました。
それが、身分は高いが、勝より7歳も若い木村摂津守でした。
勝にすれば、それがどうにもガマンならない。
■木村摂津守自身は、立派な人格者ですし、無能な人間ではありません。
福沢諭吉は、この木村の従者として、咸臨丸に乗り込んでいました。
福沢によると、木村摂津守は、今回の役割を受けると、すべての財産を金銀
に変えて、咸臨丸に持ち込んだそうです。拝命した以上、船と運命を共にす
るという武門の決意です。
ちなみに木村は、維新後は一切の役職を断り、清貧の徒として生涯を過ごし
ます。
決して身分をひけらかすこともなく、若い福沢諭吉の教養を心から尊敬し、
人のいないところでは「先生」と呼んでいたようです。
■そんな木村ですから、勝海舟をないがしろにするわけではありません。
ことあるごとに勝を立て、勝の意向を尊重しようとしました。
ところが、勝の方は、自分より能力の劣る者が上にいることがガマンならな
い。
船酔いを理由に、自分専用の船室に閉じこもって出てこない。
何を聞かれても「木村殿に決めてもらえばいいだろう」などと子供のような
所作を見せます。
しかも、太平洋の真ん中で「もう日本に帰るからボートを下ろせ」と騒ぎ出
したそうです。
これでは子供以下です。
福沢諭吉が、勝を嫌うのも仕方ないことですね。
■このように、勝海舟は、人格的に問題を抱えた人でもありました。
彼にすれば、出世したいという気持ちがまず強烈にあったのでしょう。
しかも能力は誰もが認めるほど高い。
それなのに、身分が低いという理由で、思い通りにならない状況がある。
まさに成り上がる者が抱く恨みつらみが、勝の中には渦巻いていたのでしょ
う。
アメリカから帰った後、幕府の高官から「アメリカとはどのような国か?」
と問われて、勝が答えた言葉がふるっています。
「わが国と違い、かの国は、重い職にある人は、その分だけ賢うございます」
そう言ってのけたそうです。
恨みつらみもここまでくれば、立派なものです。
■ただし、勝海舟が偉大なのは、こうした個人的な恨みを「封建制度」とい
う体制への批判に昇華させたことです。
私の言葉でいうと「出世したい。無能な上司を排除したい」という現場の視
点から、「よりよい体制を作る」という戦略目標へ発展させていったのです。
彼は、その能力とエネルギーの全てを、理想とする日本国の実現に振り向け
ました。
そこに、個人的な恨みつらみは感じられません。
そうでなければ、坂本龍馬や西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といった傑物
たちを感服させることができたはずがありません。
■勝海舟の人生のハイライトは、45歳の時。江戸城開城をめぐる攻防でし
た。
江戸の城下町を挟んで対峙する官軍は、あくまで徹底抗戦の構えでした。
そもそも西郷隆盛は、無血開城など認めないという立場をとっていました。
維新後も「日本には戦が足りない」と漏らしていたぐらいです。
徹底して破壊しなければ、新しいものは築けないというのが西郷の考えでし
た。
ところが、勝海舟は、あくまで傷を少なくして日本の国力を維持させなけれ
ば、諸外国の思う壺になるという危機意識を持っていました。
聡明な徳川慶喜は、勝海舟にすべてを委任して早々と蟄居していました。
この身分の低い出自の男は、最後には幕府を代表する立場となっていたので
す。
■西郷隆盛が、最終的に徳川家の保全と無血開城を認めた理由には、諸説あ
ります。
「篤姫」などでは、まさに篤姫の嘆願が効いたことになっています。
あるいは、江戸という市場を維持したい英国大使パークスの圧力によるもの
だという説もあります。
ただ現実的には、勝海舟との会談を経て、合意したわけですから、その交渉
が無血開城を結実させたのです。
実は、勝はこの時、交渉決裂の際のための具体的な焦土作戦を準備していま
した。
徳川慶喜を海から脱出させ、江戸の庶民は千葉に避難させる。その上で、江
戸の町に火を放ち、江戸城を丸裸にした上で、海上から砲撃を加えるという
ものです。
(ロシアがナポレオン軍を破った際の戦術を参考にしたようです)
確かに幕府側は、圧倒的な海軍力を有しており、この作戦が実行されると、
官軍側も多大な損害を得ることになり、戦争は長期化します。
勝は、交渉用語でいうBATNA(交渉決裂の際の最適な代替案)を西郷に
チラつかせることで、無為な戦争はしない方が得策だと納得させたのです。
この大軍を前に、さらに西郷隆盛という不出生の傑物を前に、よくこれだけ
の交渉ができたものです。
西郷は何事にも動じない大人物として有名ですが、勝の肝も相当太かったん
でしょうな。
■江戸城を引き渡した後の勝の人生は、余生といってもいいでしょう。
彼が全精力を傾けたのは、徳川慶喜の安全確保と名誉の回復でした。
こちらもほぼ勝の思い通りに決着をつけています。
その他には特に大きな仕事はしていません。
明治政権になってから官職を得ましたが、実際には、何もせずに部下に丸投
げしていたんだそうです。
彼は「やるだけやったんだから、後は若い奴らに任せようや」とうそぶいて
います。
明治政府の政策には、いろいろと不満もあったようですが、最後は達観して
いた様子が伺えます。
「なるようにしかならないよ」とも言っています。
福沢諭吉の批判に対しては「行動の責任は私にある。評価は他人がするもの
だからご自由に」と応えています。
立派なものじゃないですか。
■私は勝海舟のスケールの大きさが好きです。
彼こそ、この時代、戦略的視点からものを見ることができた数少ない人物の
一人でした。
(戦略的視点とは、全体的、長期的、合目的的、過程的な視点のことです)
わが国で初めて日本国を意識したのが勝海舟だ。と司馬遼太郎は言っていま
す。
そして、初めて日本国民となったのが坂本龍馬だと。
坂本龍馬は、師である勝海舟に劣らぬスケールで発想する人物に育っていき
ます。
龍馬が船上で構想した「船中八策」は、後の国家のグランドデザインを示す
ものとして、西郷にも大久保にも発想しえぬものでした。
一説によると、徳川慶喜は「船中八策」を読んで、徳川の治世が終わったこ
とを理解したと言われています。
聡明な“最後の将軍”は、古い時代の誰も、このような構想を描くことがで
きないことを悟ったのです。
もし坂本龍馬が明治維新後も生きていれば。
歴史にifはありませんが、そう思いたくなるように明治時代は迷走してい
きます。
■勝海舟がなくなったのは、明治32年。76歳の時です。
最後の言葉は「コレデオシマイ」でした。
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■司馬遼太郎の「明治という国家」は、疑いもなく名著です。
NHKの番組のために口述したものをまとめたのがこの本です。
だからこそ、司馬遼太郎の柔らかな語り口調で、自由な発想の語りを知るこ
とができます。
彼の小説は「余談」が多いことが特徴であり、また魅力の一つなのですが、
この本については「余談」だらけです。
その余談を十分に楽しむことが、この本の正しい読み方でしょう。
■この本の中には、有名な小栗忠順の感動的なエピソードも出てきます。
小栗忠順とは、徳川埋蔵金をどこかに隠したとしてよく話題に上る人物です。
幕府の高官の中では、飛びぬけて優秀な人物であり、勝海舟の最大のライバ
ルと目されていました。
勝海舟は「小栗は結局、幕府の枠の中でしかものを考えられない人だった」
と述べていますが、司馬遼太郎はそれに異を唱えています。
彼のエピソードは、幕末期の人々が、いかに日本の行く末を真摯に考えてい
たかを示すものとして、感動的です。
ぜひとも、この本で、読んでください。