織田信長はなぜ徳川家康に正室と嫡男の処分を命じたのか

2007.08.16


(2007年8月16日メルマガより)

■よく「本気でやってるか!?」「真剣にやってるのか!」などと叱咤する
ことがありますが、その本気とか真剣ってどういうことなんでしょうか?

私も営業マン時代に「真剣に仕事しとんのか!」とお客さんからどやされた
ことがありますが^^; よくよく考えてみれば、どういう仕事をすれば真
剣にしていることになるんでしょうかね。

まあ、でも今日は軽く読んでください^^

■真剣とはその名の通り、殺傷能力のある武器で殺しあう戦いのことを言う
のでしょうか。だとしたら、そんな経験などしたことありませんから、その
気持ちにもなれません。。。

なんてサラリーマン時代はうそぶいていたものですが、自営業者や経営者に
とっては、ビジネスはシリアスです。真剣にやれ!とどやしたくなる気持ち
も分かります。

被雇用者であれば収入が突き抜けることもない代わりに、無一文になるリス
クも少ないです。比較的ですが。

ここだけの話、どえらい失敗をしても誰かが何とかカバーしてくれるもんで
す。サラリーマンならば、誰しもとんでもない失敗の経験があるのではない
でしょうか。

しかし、独立者にとっては、致命的なミスは文字通りビジネスの死を意味し
ます。失敗をカバーしてくれる人はいません。そのまま社会的制裁につなが
ることもあるでしょう。

つつがなく家族を養うためには、大きなミスをするわけにはいかないのです。

■戦国時代の武将の事例は、現代の我々にも数々のヒントを与えてくれます。
なにより、彼らにとって、負けることは死を意味したはずです。
ずばり「生き残る方法」を知りたければ、戦国時代に学びましょう。

今日のネタ本は、外川淳氏の
「信長 戦国城盗り物語」http://tinyurl.com/22zw6q
「秀吉 戦国城盗り物語」http://tinyurl.com/23xzla
「家康 戦国城盗り物語」http://tinyurl.com/2d3cg8
です。文庫本書き下ろしということですから、あまり知られていないシリー
ズかも知れません。でも中身は濃いです。私は出張のたびに買って読んでい
ました。

これらは、戦国の3大武将に「城攻め」という観点から迫ったシリーズです。
戦国時代の城攻めの実態を示すと同時に、それぞれの武将の城攻めの方法か
ら見えてくる考え方や姿勢を提示しています。

従来の定説に反する内容もありますが、作者は「実証的」な姿勢を標榜して
おり、納得のいく説が展開されています。

■「戦国時代の武将にとって負けることが死を意味していた」ということ自
体が誤解だと言ったら驚かれるでしょうか。

実は、戦国時代の武将にとって負けることは必ずしも死ぬことを意味しませ
んでした。負けて生き残ることができるなら、それで良しです。生き恥をさ
らすという概念自体が無かったのかも知れません。

つまり、戦国時代の武将にとっては、勝ち負けよりも「生き残る」ことが優
先課題であったのです。

このあたり江戸時代に形成された武士道とは根本的に異なる部分でしょう。

■織田信長が、鎌倉将軍足利義昭を擁して京を制圧した時、まるで無人の野
を行くような勢いで敵を蹴散らせました。

その折、京を支配していたのが三好三人衆です。彼らはなぜ戦いらしい戦い
をせずに京を放棄したのか?

この本では、当時の戦いが基本的に「生き死に」を決めるようなものではな
く、武力を背景にした「交渉」で決まっていたことを紹介しています。

だから、織田軍の圧倒的な軍事力と「本気度の高さ」を見た三好三人衆は、
交渉の余地なしとみてすぐに撤退したわけです。

その後、三好三人衆は情勢を見て再蜂起していますから、戦略的撤退であっ
たことは明らかです。彼らにとって一時的な負けは死を意味するものではあ
りません。生きのびて、再度、勝てる戦いを挑む方が合理的です。

■その織田信長も毎回「本気の戦い」を仕掛けていたわけではありません。
信長がギャンブル的な戦いを行ったのは桶狭間の戦いのみで、後は「必ず勝
てる戦い」を行いました。

信長が、武田信玄や上杉謙信などの強敵との戦いを避け続けたことはよく知
られていますが、これは彼らを恐れたというよりも、リスクを回避するとい
う合理的な判断であったと思われます。

織田信長は、城攻めをする時も、力攻めすることはほとんどせず、包囲した
上で砲撃などで圧力を与え、降伏を促すという基本戦略を持っていました。

敵城を包囲するために「付け城」といわれる臨時の砦を構え、長期的な構え
で攻略することを得意としていました。(秀吉はこの方式をさらに進化させ
て、敵城よりも巨大な付け城を築いて圧倒する城攻め術を編み出したそうで
す)

攻めあぐねれば、無理に攻め落とすことはせずに撤退し、情勢が変わるのを
待つこともしばしばです。

後年の印象よりもだいぶ気長な像が浮かんできます。

■スパイを送り込んで調略を仕掛けることも当時の常識であり、信長の得意
戦術です。調略によって敵将を寝返らせることができれば、自軍に損害を与
えることなく敵を制圧できます。

戦国武将の多くは絶対君主ではなく、地侍の旗頭のような存在であったと思
われます。

地侍とは、ある土地を地盤とする首領です。彼らにとって自分の領地を守る
ことが絶対の命題ですから、領地を安堵してくれるなら旗頭が変わっても文
句はありません。

だから、強い新興勢力が来ると、そちらに鞍替えするのは当然の行動です。
それは裏切りというよりもポジション替えという行為です。情勢をうまく読
んだ家は生き残り、読み違えた家は滅んだということです。

戦いに調略は欠かせません。それは新たな就職先の斡旋のようなもので、確
実なニーズを捉えているものだったのです。(裏切り防止のために人質を差
し出すのが通例でしたが、家の存続のためには犠牲にされました)

後年の関ヶ原の戦いの折に、ほとんどの武将が、二重に交渉しておいて家の
存続を図ったように、情勢が読めない時は、両方によしみを通じておくのは
生き残るためには当然の行動だったというわけです。

■徳川家康が信長と同盟を結んだ時、二人は三河と尾張の領主として対等の
関係でした。

ところが京を制圧し勢力を拡大する織田に対し、周囲の強敵を破ることがで
きなかった徳川は小勢力のままでした。

次第に信長は、徳川を家臣扱いするようになり、自身の天下布武のために酷
使するようになります。

その上、あろうことか信長は「武田に内通した」などと難癖をつけて、家康
に正室と嫡男の処分を迫ります。

散々酷使させられたあげくにこの仕打ち。ひどい話ですが、家康はその命に
も従う他ありませんでした。「律儀者」という評価も涙で霞んだことでしょ
うね。

■このエピソードは、信長の尊大さ、残忍さを示すものとして広く知られて
います。同盟者をも脅迫する強烈さは、信長を覇王たらしめるものとして、
小説などでは必ず採りあげられるくだりです。

■もっとも、先の著作の中では少々違った解釈をしています。

当時、徳川は織田と武田に挟まれて脅かされ続ける存在でした。武田は織田
対策として徳川を攻め続け、織田はリスクを嫌って放置していました。

徳川は、織田のクッションとして武田の脅威を受け続けていたのです。

この状況であれば、当時の常識から言えば、徳川は武田との交渉窓口を持っ
ていなければおかしいわけです。

(実際に、家康は「このままでは武田に味方せざるを得ない」旨の手紙を信
長に送ったこともあります)

そこで武田に関係の深い正室が交渉窓口であったとみるのが自然です。

■信長としても、家康に表立って背かれたら面倒なので、そういう動きを知
っていながら放置していたようです。

しかし武田家が落ち目になって、織田の勝ちが明瞭になった時点で、徳川に
責任をとらせたというのが真相ではないでしょうか。

もっとも、大勢が決した時点できっちり過去の責任を追及するところが信長
の執念深いところです。やはり恐ろしい人物です。

■ランチェスター戦略セミナーで最も人気のないのが「足下の敵攻撃の原則」
のくだりです^^;

これは、強い者とは戦わず、自分より弱い立場の者を標的としようという戦
いの原則です。

この件ではお叱りを受けることもあります。「わざわざセミナーで、弱いも
のいじめを奨励するようなことを言うな」ということです。

しかし、戦国武将の事例を知ると、本気で生き残るためには、卑怯だの何だ
のと言ってはいられなかったことが分かるのではないでしょうか。


【オンラインセミナー】ランチェスター戦略入門編
http://goo.gl/ka0BBL


(2007年8月16日メルマガより)

■よく「本気でやってるか!?」「真剣にやってるのか!」などと叱咤する
ことがありますが、その本気とか真剣ってどういうことなんでしょうか?

私も営業マン時代に「真剣に仕事しとんのか!」とお客さんからどやされた
ことがありますが^^; よくよく考えてみれば、どういう仕事をすれば真
剣にしていることになるんでしょうかね。

まあ、でも今日は軽く読んでください^^

■真剣とはその名の通り、殺傷能力のある武器で殺しあう戦いのことを言う
のでしょうか。だとしたら、そんな経験などしたことありませんから、その
気持ちにもなれません。。。

なんてサラリーマン時代はうそぶいていたものですが、自営業者や経営者に
とっては、ビジネスはシリアスです。真剣にやれ!とどやしたくなる気持ち
も分かります。

被雇用者であれば収入が突き抜けることもない代わりに、無一文になるリス
クも少ないです。比較的ですが。

ここだけの話、どえらい失敗をしても誰かが何とかカバーしてくれるもんで
す。サラリーマンならば、誰しもとんでもない失敗の経験があるのではない
でしょうか。

しかし、独立者にとっては、致命的なミスは文字通りビジネスの死を意味し
ます。失敗をカバーしてくれる人はいません。そのまま社会的制裁につなが
ることもあるでしょう。

つつがなく家族を養うためには、大きなミスをするわけにはいかないのです。

■戦国時代の武将の事例は、現代の我々にも数々のヒントを与えてくれます。
なにより、彼らにとって、負けることは死を意味したはずです。
ずばり「生き残る方法」を知りたければ、戦国時代に学びましょう。

今日のネタ本は、外川淳氏の
「信長 戦国城盗り物語」http://tinyurl.com/22zw6q
「秀吉 戦国城盗り物語」http://tinyurl.com/23xzla
「家康 戦国城盗り物語」http://tinyurl.com/2d3cg8
です。文庫本書き下ろしということですから、あまり知られていないシリー
ズかも知れません。でも中身は濃いです。私は出張のたびに買って読んでい
ました。

これらは、戦国の3大武将に「城攻め」という観点から迫ったシリーズです。
戦国時代の城攻めの実態を示すと同時に、それぞれの武将の城攻めの方法か
ら見えてくる考え方や姿勢を提示しています。

従来の定説に反する内容もありますが、作者は「実証的」な姿勢を標榜して
おり、納得のいく説が展開されています。

■「戦国時代の武将にとって負けることが死を意味していた」ということ自
体が誤解だと言ったら驚かれるでしょうか。

実は、戦国時代の武将にとって負けることは必ずしも死ぬことを意味しませ
んでした。負けて生き残ることができるなら、それで良しです。生き恥をさ
らすという概念自体が無かったのかも知れません。

つまり、戦国時代の武将にとっては、勝ち負けよりも「生き残る」ことが優
先課題であったのです。

このあたり江戸時代に形成された武士道とは根本的に異なる部分でしょう。

■織田信長が、鎌倉将軍足利義昭を擁して京を制圧した時、まるで無人の野
を行くような勢いで敵を蹴散らせました。

その折、京を支配していたのが三好三人衆です。彼らはなぜ戦いらしい戦い
をせずに京を放棄したのか?

この本では、当時の戦いが基本的に「生き死に」を決めるようなものではな
く、武力を背景にした「交渉」で決まっていたことを紹介しています。

だから、織田軍の圧倒的な軍事力と「本気度の高さ」を見た三好三人衆は、
交渉の余地なしとみてすぐに撤退したわけです。

その後、三好三人衆は情勢を見て再蜂起していますから、戦略的撤退であっ
たことは明らかです。彼らにとって一時的な負けは死を意味するものではあ
りません。生きのびて、再度、勝てる戦いを挑む方が合理的です。

■その織田信長も毎回「本気の戦い」を仕掛けていたわけではありません。
信長がギャンブル的な戦いを行ったのは桶狭間の戦いのみで、後は「必ず勝
てる戦い」を行いました。

信長が、武田信玄や上杉謙信などの強敵との戦いを避け続けたことはよく知
られていますが、これは彼らを恐れたというよりも、リスクを回避するとい
う合理的な判断であったと思われます。

織田信長は、城攻めをする時も、力攻めすることはほとんどせず、包囲した
上で砲撃などで圧力を与え、降伏を促すという基本戦略を持っていました。

敵城を包囲するために「付け城」といわれる臨時の砦を構え、長期的な構え
で攻略することを得意としていました。(秀吉はこの方式をさらに進化させ
て、敵城よりも巨大な付け城を築いて圧倒する城攻め術を編み出したそうで
す)

攻めあぐねれば、無理に攻め落とすことはせずに撤退し、情勢が変わるのを
待つこともしばしばです。

後年の印象よりもだいぶ気長な像が浮かんできます。

■スパイを送り込んで調略を仕掛けることも当時の常識であり、信長の得意
戦術です。調略によって敵将を寝返らせることができれば、自軍に損害を与
えることなく敵を制圧できます。

戦国武将の多くは絶対君主ではなく、地侍の旗頭のような存在であったと思
われます。

地侍とは、ある土地を地盤とする首領です。彼らにとって自分の領地を守る
ことが絶対の命題ですから、領地を安堵してくれるなら旗頭が変わっても文
句はありません。

だから、強い新興勢力が来ると、そちらに鞍替えするのは当然の行動です。
それは裏切りというよりもポジション替えという行為です。情勢をうまく読
んだ家は生き残り、読み違えた家は滅んだということです。

戦いに調略は欠かせません。それは新たな就職先の斡旋のようなもので、確
実なニーズを捉えているものだったのです。(裏切り防止のために人質を差
し出すのが通例でしたが、家の存続のためには犠牲にされました)

後年の関ヶ原の戦いの折に、ほとんどの武将が、二重に交渉しておいて家の
存続を図ったように、情勢が読めない時は、両方によしみを通じておくのは
生き残るためには当然の行動だったというわけです。

■徳川家康が信長と同盟を結んだ時、二人は三河と尾張の領主として対等の
関係でした。

ところが京を制圧し勢力を拡大する織田に対し、周囲の強敵を破ることがで
きなかった徳川は小勢力のままでした。

次第に信長は、徳川を家臣扱いするようになり、自身の天下布武のために酷
使するようになります。

その上、あろうことか信長は「武田に内通した」などと難癖をつけて、家康
に正室と嫡男の処分を迫ります。

散々酷使させられたあげくにこの仕打ち。ひどい話ですが、家康はその命に
も従う他ありませんでした。「律儀者」という評価も涙で霞んだことでしょ
うね。

■このエピソードは、信長の尊大さ、残忍さを示すものとして広く知られて
います。同盟者をも脅迫する強烈さは、信長を覇王たらしめるものとして、
小説などでは必ず採りあげられるくだりです。

■もっとも、先の著作の中では少々違った解釈をしています。

当時、徳川は織田と武田に挟まれて脅かされ続ける存在でした。武田は織田
対策として徳川を攻め続け、織田はリスクを嫌って放置していました。

徳川は、織田のクッションとして武田の脅威を受け続けていたのです。

この状況であれば、当時の常識から言えば、徳川は武田との交渉窓口を持っ
ていなければおかしいわけです。

(実際に、家康は「このままでは武田に味方せざるを得ない」旨の手紙を信
長に送ったこともあります)

そこで武田に関係の深い正室が交渉窓口であったとみるのが自然です。

■信長としても、家康に表立って背かれたら面倒なので、そういう動きを知
っていながら放置していたようです。

しかし武田家が落ち目になって、織田の勝ちが明瞭になった時点で、徳川に
責任をとらせたというのが真相ではないでしょうか。

もっとも、大勢が決した時点できっちり過去の責任を追及するところが信長
の執念深いところです。やはり恐ろしい人物です。

■ランチェスター戦略セミナーで最も人気のないのが「足下の敵攻撃の原則」
のくだりです^^;

これは、強い者とは戦わず、自分より弱い立場の者を標的としようという戦
いの原則です。

この件ではお叱りを受けることもあります。「わざわざセミナーで、弱いも
のいじめを奨励するようなことを言うな」ということです。

しかし、戦国武将の事例を知ると、本気で生き残るためには、卑怯だの何だ
のと言ってはいられなかったことが分かるのではないでしょうか。


【オンラインセミナー】ランチェスター戦略入門編
http://goo.gl/ka0BBL

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