もし諸葛孔明が経営顧問だったら

2009.04.23

(2009年4月23日メルマガより)

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■今週の週刊文春に「日本人の好きな三国志の英雄」という特集をやってい
ました。

ちなみにアメリカ人は曹操が好きで、中国人は関羽が好きだそうです。

では日本人は?

お分かりでしょうか。

そうです。諸葛亮(孔明)の人気がダントツです。

■アメリカ人が曹操好きというのは分かる気がします。

古い慣習を壊して、柔軟な精神で、新しい時代を切り開く英雄曹操は、アメ
リカ人の開拓者精神に響くのでしょう。

中国人の関羽というのはよく分かりませんね^^;

忠義に厚い人柄が転じて「商売の神様」として崇められている関羽ですが、
中国の方は忠義を殊の外重んじるということでしょうか。

理由を知っている方がおられたら教えてくださいね。

■日本人はとにかく諸葛亮が好きです。

中国の歴史上最大級の能力を持ちながら、清廉潔白な人柄で、ひたすら主君
のために尽くす姿は日本人の琴線に触れるのでしょうね。

それに大国魏を相手に孤軍奮闘の末、悲劇的に生涯を終える結末も、判官び
いきの日本人に合うということでしょうか。

もちろん私も諸葛亮が一番好きです。

メンターを一人挙げよと言われれば、迷わず諸葛亮と言いますね。

というわけで今回は、諸葛亮の話をします。

今までこのメルマガでは、2度ほど三国志をとりあげましたが、今回は赤壁
の戦いの後を中心に書きたいと思います。

参考→「経営で必要な知恵はすべて三国志で学んだ

■レッドクリフがモチーフとする「赤壁の戦い」(西暦208年)は、呉軍
が勝利し、曹操による天下統一を事実上挫くこととなりました。

呉の孫権は、曹操への警戒から「天下三分の計」を採用し、第3勢力として
育てるべく劉備に荊州という地域を貸し与えます。

それまで抜群の軍事能力を誇りながらも、拠るべき土地を持たないために傭
兵集団としてしか在りえなかった劉備が念願の拠点を得たのです。

三国時代が大きく動き出した瞬間です。

■そもそも劉備とはどのような人物だったのでしょうか。

劉備。字は玄徳。現在の河北省にあたるタク郡の生まれで、漢王族の末裔と
称していました。しかし実際には血縁を頼った形跡はなく、あくまで自称で
あったようです。生まれは貧しく、草鞋を編んで生計を立てていました。

ただ本来の気性は激しく、関羽や張飛といった荒くれたちをも一目置かせる
侠気があったと思われます。

一時は学問を志すこともあったようですが、結局、戦乱の世に生きる道を見
つけていきます。

■劉備は「三国志演義」の主人公として、その誠実な人柄が称えられる人物
です。

しかし客観的に見た時、目立つのは、その軍事的能力の高さです。

大きな兵力数を持たぬ身でありながら、多くの諸侯に頼りにされ、また数多
の戦いにも生き抜いたしぶとさは、三国志随一です。

曹操や呂布など一流の武将には敗れていますが、それでも損害を最小限に食
い止める勝負勘の鋭さが、劉備の価値を高めています。

何ら後ろ盾を持たぬ裸一貫の男が、戦乱の世に勢力を保ち続けたのだから脅
威であることは間違いありません。

さすがの曹操も「この世に英雄と呼べるのは、劉備と私しかいない」と警戒
していました。

■もっとも劉備が本当に歴史の表舞台に顔を出すのは、長期的な戦略をデザ
インできる参謀を得てからです。

それまでは、軍事能力に優れた庸兵集団のリーダーに過ぎなかった男が(要
するに雇われて動く便利屋稼業です)、突如、歴史をつくりかえるような方
向性を持って動き出したのです。

その参謀こそ臥龍と言われた諸葛亮に他なりません。

諸葛亮ほどの人物が仕える劉備を、もはや単なる戦争屋と思う者はいなくな
りました。

かくして劉備は、長期的な戦略性と軍事力、それに漢王朝の末裔という大義
名分を持つ大きな勢力となっていったのです。

■諸葛亮はとにかくスケールの大きな戦略眼を持った人物でした。

まだ拠点を持たない劉備に対して「曹操の魏と対抗するためには、呉と魏を
戦わせ、その間に第三勢力として屹立すべきである」という「天下三分の計」
を説きました。

その場合の拠点とすべき場所も具体的に決めていました。

この大きな戦略を持つ諸葛亮に劉備は全面的に心服しました。

義兄弟である関羽や張飛が嫉妬するほどだったといいますが、劉備は「私と
孔明の間柄は、魚と水の関係のようなものだ」と言って彼らを納得させてい
ます。(これが水魚の交わりの語源です)

■諸葛亮。字は孔明。徐州(現在の江蘇省北東部)あたりの生まれですが、
曹操の徐州大虐殺を機に荊州(現在の湖北省)に移り住みました。

荊州の名士の間で才能を畏敬されていましたが、本人は仕官する気はなく、
弟とともに晴耕雨読の生活を送っていました。

彼が世に出る意欲を見せなかったのは、主君とするに足る人物がいなかった
こともありますが、生来身体が弱く、仕官に耐えられないからだとみる向き
もあります。

それが劉備との出会いを機に、自らの命を賭ける仕事を見出したのでした。

諸葛亮が理想とするのは、儒教の理念を中心とした漢王朝の再興だったよう
です。

漢王朝の末裔を名乗り、しかも軍事力に優れた劉備は、諸葛亮が夢を託すに
うってつけの人物でした。

■赤壁の戦いの後、借り受けた荊州を足がかりに、益州(現在の四川省あた
り)に地盤を得ていくのは、諸葛亮の力であるといっても過言ではないでし
ょう。

当時、名士といわれる儒教者のグループの影響力は想像以上だったようで、
形式的な主君よりも、土地に根ざした名士たちの方が、力が強かったと言わ
れています。

その名士たちから畏敬されていた諸葛亮の力は大きく、彼がいなければ劉備
は益州から受け入れられることはなかったでしょう。(このあたり、呉にお
ける周瑜の果たした役割に通じるものがあります)

当時、益州の君主は劉璋という人物でしたが、彼では曹操に対抗できないと
考えた名士たちが、劉備を呼び寄せたのです。

劉備はこれまでと同じように、信義に反することはできないと渋りますが、
(過去に同じような状況でグズグズしていたために曹操に奪われてしまった
ことがありました)大儀を果たすためであるという諸葛亮の説得もあり、劉
璋を追い出して、益州を支配下に治めます。

■諸葛亮の戦略は、荊州と益州の両方から挟み打ちにする形で曹操を攻める
というものでした。

諸葛亮自身は、成都(四川省の主都)を統治することに専念し、益州からは
劉備が、荊州からは関羽が曹操を攻撃する壮大な戦略です。

当時の劉備陣営には、それを為す軍事力も戦略も備えていたのです。言い換
えれば、諸葛亮が机上で作った戦略が具体化できたのは、劉備の持つ軍事力
というリアリズムでした。

曹操自身が最も恐れる二大武将に挟み撃ちされる状況は、非常に厳しいもの
だったに違いありません。

特に関羽の攻撃力はすさまじく、さすがの曹操も弱気になって、都を長安か
ら後方に遷都しようかと漏らしています。

■一方で、劉備は、曹操陣営の喉元である漢中に侵攻します。

その時、呉の孫権との戦いに手をとられていた曹操は身動きがとれませんで
した。

そもそも、曹操が乱世の覇者となれたのは、機動力が格段に優れていたから
です。

曹操は、自身に忠実な騎兵隊を持ち、自在に操ることができました。相手が
戦闘態勢に入る前に素早く攻め込み各個撃破するというのが、曹操の最も得
意なパターンです。

袁紹や劉備は、過去に幾度もこの機動力の前に敗れ去りました。

しかし、呉や関羽、劉備から波状攻撃に晒される状況は、曹操得意の機動力
を封じられたとも言えます。

ここでも、曹操の弱点を突いた軍師諸葛亮の壮大な戦略が功を奏したと言っ
ていいでしょう。

■劉備は、漢中守備をしていた猛将夏侯淵を撃破し、漢中に砦を築きます。

ようやく呉と講和した曹操が、漢中にやってくるのは、劉備が万全の布陣を
しいた後でした。

■ついに劉備と曹操が雌雄を決する時が来たのです。

劉備陣営を激しく攻める曹操に対して、劉備は火力を武器に用いたようです。

これは諸葛亮の基本戦略でもありました。

諸葛亮は、発明家としても優れ、数々の武器を考案しています。1800年
も前に火力を武器としていたということ自体が驚きですが、彼はそれを曹操
の機動力を封じるために活用しようとしました。

これは、後に武田騎馬隊を封じるために鉄砲隊を使った織田信長の戦略に通
じるものがあります。

しかも曹操が驚いたのは、劉備の戦術の的確さでした。これまでの戦いとは
一味も二味も違う劉備の戦いぶりに曹操は目を見張ります。

実は、この時、劉備には法正という稀代の軍略家が仕えていました。

私怨で政敵を抹殺するなどとかく悪い噂の耐えない法正ですが、彼の軍事指
導は正確無比で、諸葛亮も一目置いていました。

このように、当時は、諸葛亮は直接戦闘指導をすることはありませんでした。
あくまで、全体戦略を諸葛亮が担当し、具体的な行動は劉備が行っていまし
た。

後に曹操は「劉備があれほどやるとは思わなかったが、やはり法正がついて
いたのか」と述懐しています。

攻めあぐねた曹操は、漢中を諦め、撤退します。

216年。劉備は、ここに漢中王を名乗り、三国時代を到来させるのです。

■しかし劉備の勢いは長くは続きませんでした。

あくまで曹操に対抗させる勢力としか見ていなかった劉備が王となることで、
焦燥したのは呉の孫権も同じでした。

孫権は、妹を劉備に嫁がせるなど、両国の関係を深める一方で、貸し与えた
荊州の返還を巡っては揉めていました。

しかも自分の娘を関羽の息子に嫁がせようとして拒否されるなど面目をつぶ
される事件もありました。

曹操の密かな誘いに乗じて、孫権は突如裏切り、曹操との戦いに気をとられ
ている関羽を背後から襲い攻め殺してしまいます。

こうして関羽に対する恨みを晴らすと同時に、荊州の領有を回復します。

まだ若い孫権ですが、この後も、魏と蜀との同盟と離反を繰り返しながら、
のらりくらりと自国を維持するというマキャベリズムを体現していきます。

しかし後継者選びにものらりくらりと態度をはっきりしなかったために、国
内の政治は乱れ、国力を衰退させていきます。

呉そのものは、三国の中で最も長生きするのですが、最後の状況はお寒いも
のだったようです。

■さて義兄弟である関羽を斬られた劉備は怒り狂います。

本来の敵である曹操など眼中になく、孫権憎しの気持ちだけで我を忘れてし
まいます。

諸葛亮や宿将の趙雲(レッドクリフではやたら活躍していましたね^^)で
さえ私怨を捨てるように進言しますが、聞き入れませんでした。

運悪く、張飛や法正も次々と没しますが、それでも劉備を止めることはでき
ませんでした。

劉備はありったけの軍勢を連れて、呉に侵攻します。

劉備の全てを賭けた進軍でした。その勢いはすさまじく、手のつけようがな
い有様でした。

しかし勢いに任せ冷静さを欠いた進軍は、敵の思う壺でもありました。

敵の陣中深く入り込んだ劉備は、いつしか退路を絶たれ、罠にはまったこと
を知ります。

それまで不気味に静まり返っていた敵が突如、四方から火責めを仕掛けてき
たために、劉備はなすすべもありませんでした。

裸一貫から王にまで上り詰めた男も生涯の最後にほぼ全軍を壊滅させるとい
う歴史的な大敗を喫してしまったのです。

失意の劉備は、命からがら白帝城に逃げ込み、そこで生涯を終えたのです。

■劉備は死ぬまぎわ遺言を諸葛亮に託します。涙なしには聞けない言葉です。

「君の才能は魏の曹丕に十倍する。必ずや国に安定をもたらし、統一を果た
してくれると信じている。わが子、劉禅が王の器を持っているようであれば、
これを補佐してほしい。だが、もし補佐するに足りない器だと思ったのなら、
いつでも代わって皇帝になってほしい」

まさに前代未聞の遺言です。

「三国志正史」には、一点の私情もない君臣関係の鏡だと評されています。

一部、劉備が諸葛亮を牽制するための遺言だと捉える向きもありますが、そ
うではないと私は考えます。

諸葛亮とすれば、皇帝になるためのお墨付きをもらったようなものです。

この後、諸葛亮に「そろそろ皇帝になってはどうか」と勧める声は少なくあ
りませんでしたが、諸葛亮はついに生涯をかけて劉禅を守り続けました。

これほど清廉で高潔な人格が他にあるでしょうか。

■しかし、事実上、蜀の命運は決まったも同然でした。

頼みとした軍事力は崩壊し、劉備、関羽、張飛はもういません。

内政を担当する諸葛亮しか残っていないのです。

いくら彼に戦略があろうとも、それを実現するリアルな手段はもうなくなっ
てしまったのです。

誰もがそう思いました。。。

■ところが、中国の歴史上最大の天才は、ここから不死鳥のように蘇り、幾
度も魏を圧倒することになるのです。

素早く呉と同盟を回復すると、抜群の内政能力を発揮し国力を回復させた諸
葛亮は、わずか4年で魏を討伐する軍を進めます。

これまでほとんど実戦を経験したことがなかった男が、6倍の戦力を有する
大国を一方的に攻め続けたのです。

一部には諸葛亮の軍事能力を疑問視する声もあるようですが、結果はともあ
れ、あと一歩のところまで魏を追い詰めた軍事能力が低いはずはありません。

魏は切り札としてもう一人の天才軍師司馬懿を立てますが、司馬懿をもって
しても、持久戦に持ち込むことで精一杯でした。

しかも5度に渡る戦争の中で、諸葛亮は様々な軍事課題を解決し、確実に優
位に戦いを進めるようになっていきました。

諸葛亮の敵は、自分自身の体力だけでした。

もともと身体が弱く仕官に耐えられないと言われていた男は、その使命感だ
けで過酷な遠征に耐え続けていたのです。

しかし西暦234年。秋風の吹く五丈原で、ついに稀代の人物は病に倒れま
す。享年54歳。

ひたすら大儀に燃え、現世的な欲望は一切求めない清廉な生涯でした。

■日本に三国志を紹介した第一人者である吉川英治は「三国志の前半の真の
主人公は曹操であり、後半の主人公は諸葛孔明である」と書いています。

吉川三国志における諸葛亮への思い入れは強いものがありますから、これを
最初に読んだ私としても、諸葛亮びいきになったのは否めませんね。

だから日本人で諸葛亮好きな人が多いのは、吉川英治の影響を受けていると
いうことなんでしょうか。

■諸葛亮なきあとの三国志は急速にテンションを下げてしまいます。

残念ながら、諸葛亮という一人の才能に拠りかかっていた国家は、急速にひ
ずみを露呈し、衰退の道をたどっていきます。

皮肉なことに劉備の息子、劉禅は王の器ではなかったようですね。

そして西暦263年には、魏の侵攻を受けて滅亡します。三国の中で最も早
く姿を消してしまったのです。

■しかし劉備や諸葛亮らの業績が消えることはありません。

彼らの姿は、経営者とその参謀に擬することもできるでしょう。

彼らが最も輝いていたのは、曹操との最終決戦に勝った漢中争奪戦の頃です。

その時、リアルに行動する君主と、冷静に戦略を立てる軍師という役割が的
確に機能していました。

それは組織にとって最も理想的な状態で、まさに「水魚の交わり」だったこ
とでしょう。

■諸葛亮は、実際には「それほど特別な人には見えなかった」と言います。

特段、オーラを発する人物ではなかったようです。

私がコンサルタントにはカリスマ性やはったりは不要だと思う所以でもあり
ます。

圧倒的な知識、冷静な判断力、そして公正で清廉な人格。

こういう人物と共に過ごしたいものですね。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■たまに経営者の方と話ていると「なぜ、そんなに知識があるのに、自分で
事業を始めないんですか?」と聞かれます。

まあ本音は「どうせ机上の空論なんだろ?コンサルなんて役に立たないよ」
ということなんでしょうか。

■私の答えが、今日の話です。

経営には、泥臭い実行力と、冷徹な計画力が必要になります。

「計画はシンプルに、実行はクレイジーに」というわけです。

曹操のように、すべてを体現できる人ならいいのでしょうが、大抵の場合、
どちらかが得意で、どちらかが不得意です。

得意分野に特化して、不得意分野は補完し合う。

これがシンプルな組織の原則だということです。

今回の主な参考文献


(2009年4月23日メルマガより)

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■今週の週刊文春に「日本人の好きな三国志の英雄」という特集をやってい
ました。

ちなみにアメリカ人は曹操が好きで、中国人は関羽が好きだそうです。

では日本人は?

お分かりでしょうか。

そうです。諸葛亮(孔明)の人気がダントツです。

■アメリカ人が曹操好きというのは分かる気がします。

古い慣習を壊して、柔軟な精神で、新しい時代を切り開く英雄曹操は、アメ
リカ人の開拓者精神に響くのでしょう。

中国人の関羽というのはよく分かりませんね^^;

忠義に厚い人柄が転じて「商売の神様」として崇められている関羽ですが、
中国の方は忠義を殊の外重んじるということでしょうか。

理由を知っている方がおられたら教えてくださいね。

■日本人はとにかく諸葛亮が好きです。

中国の歴史上最大級の能力を持ちながら、清廉潔白な人柄で、ひたすら主君
のために尽くす姿は日本人の琴線に触れるのでしょうね。

それに大国魏を相手に孤軍奮闘の末、悲劇的に生涯を終える結末も、判官び
いきの日本人に合うということでしょうか。

もちろん私も諸葛亮が一番好きです。

メンターを一人挙げよと言われれば、迷わず諸葛亮と言いますね。

というわけで今回は、諸葛亮の話をします。

今までこのメルマガでは、2度ほど三国志をとりあげましたが、今回は赤壁
の戦いの後を中心に書きたいと思います。

参考→「経営で必要な知恵はすべて三国志で学んだ

■レッドクリフがモチーフとする「赤壁の戦い」(西暦208年)は、呉軍
が勝利し、曹操による天下統一を事実上挫くこととなりました。

呉の孫権は、曹操への警戒から「天下三分の計」を採用し、第3勢力として
育てるべく劉備に荊州という地域を貸し与えます。

それまで抜群の軍事能力を誇りながらも、拠るべき土地を持たないために傭
兵集団としてしか在りえなかった劉備が念願の拠点を得たのです。

三国時代が大きく動き出した瞬間です。

■そもそも劉備とはどのような人物だったのでしょうか。

劉備。字は玄徳。現在の河北省にあたるタク郡の生まれで、漢王族の末裔と
称していました。しかし実際には血縁を頼った形跡はなく、あくまで自称で
あったようです。生まれは貧しく、草鞋を編んで生計を立てていました。

ただ本来の気性は激しく、関羽や張飛といった荒くれたちをも一目置かせる
侠気があったと思われます。

一時は学問を志すこともあったようですが、結局、戦乱の世に生きる道を見
つけていきます。

■劉備は「三国志演義」の主人公として、その誠実な人柄が称えられる人物
です。

しかし客観的に見た時、目立つのは、その軍事的能力の高さです。

大きな兵力数を持たぬ身でありながら、多くの諸侯に頼りにされ、また数多
の戦いにも生き抜いたしぶとさは、三国志随一です。

曹操や呂布など一流の武将には敗れていますが、それでも損害を最小限に食
い止める勝負勘の鋭さが、劉備の価値を高めています。

何ら後ろ盾を持たぬ裸一貫の男が、戦乱の世に勢力を保ち続けたのだから脅
威であることは間違いありません。

さすがの曹操も「この世に英雄と呼べるのは、劉備と私しかいない」と警戒
していました。

■もっとも劉備が本当に歴史の表舞台に顔を出すのは、長期的な戦略をデザ
インできる参謀を得てからです。

それまでは、軍事能力に優れた庸兵集団のリーダーに過ぎなかった男が(要
するに雇われて動く便利屋稼業です)、突如、歴史をつくりかえるような方
向性を持って動き出したのです。

その参謀こそ臥龍と言われた諸葛亮に他なりません。

諸葛亮ほどの人物が仕える劉備を、もはや単なる戦争屋と思う者はいなくな
りました。

かくして劉備は、長期的な戦略性と軍事力、それに漢王朝の末裔という大義
名分を持つ大きな勢力となっていったのです。

■諸葛亮はとにかくスケールの大きな戦略眼を持った人物でした。

まだ拠点を持たない劉備に対して「曹操の魏と対抗するためには、呉と魏を
戦わせ、その間に第三勢力として屹立すべきである」という「天下三分の計」
を説きました。

その場合の拠点とすべき場所も具体的に決めていました。

この大きな戦略を持つ諸葛亮に劉備は全面的に心服しました。

義兄弟である関羽や張飛が嫉妬するほどだったといいますが、劉備は「私と
孔明の間柄は、魚と水の関係のようなものだ」と言って彼らを納得させてい
ます。(これが水魚の交わりの語源です)

■諸葛亮。字は孔明。徐州(現在の江蘇省北東部)あたりの生まれですが、
曹操の徐州大虐殺を機に荊州(現在の湖北省)に移り住みました。

荊州の名士の間で才能を畏敬されていましたが、本人は仕官する気はなく、
弟とともに晴耕雨読の生活を送っていました。

彼が世に出る意欲を見せなかったのは、主君とするに足る人物がいなかった
こともありますが、生来身体が弱く、仕官に耐えられないからだとみる向き
もあります。

それが劉備との出会いを機に、自らの命を賭ける仕事を見出したのでした。

諸葛亮が理想とするのは、儒教の理念を中心とした漢王朝の再興だったよう
です。

漢王朝の末裔を名乗り、しかも軍事力に優れた劉備は、諸葛亮が夢を託すに
うってつけの人物でした。

■赤壁の戦いの後、借り受けた荊州を足がかりに、益州(現在の四川省あた
り)に地盤を得ていくのは、諸葛亮の力であるといっても過言ではないでし
ょう。

当時、名士といわれる儒教者のグループの影響力は想像以上だったようで、
形式的な主君よりも、土地に根ざした名士たちの方が、力が強かったと言わ
れています。

その名士たちから畏敬されていた諸葛亮の力は大きく、彼がいなければ劉備
は益州から受け入れられることはなかったでしょう。(このあたり、呉にお
ける周瑜の果たした役割に通じるものがあります)

当時、益州の君主は劉璋という人物でしたが、彼では曹操に対抗できないと
考えた名士たちが、劉備を呼び寄せたのです。

劉備はこれまでと同じように、信義に反することはできないと渋りますが、
(過去に同じような状況でグズグズしていたために曹操に奪われてしまった
ことがありました)大儀を果たすためであるという諸葛亮の説得もあり、劉
璋を追い出して、益州を支配下に治めます。

■諸葛亮の戦略は、荊州と益州の両方から挟み打ちにする形で曹操を攻める
というものでした。

諸葛亮自身は、成都(四川省の主都)を統治することに専念し、益州からは
劉備が、荊州からは関羽が曹操を攻撃する壮大な戦略です。

当時の劉備陣営には、それを為す軍事力も戦略も備えていたのです。言い換
えれば、諸葛亮が机上で作った戦略が具体化できたのは、劉備の持つ軍事力
というリアリズムでした。

曹操自身が最も恐れる二大武将に挟み撃ちされる状況は、非常に厳しいもの
だったに違いありません。

特に関羽の攻撃力はすさまじく、さすがの曹操も弱気になって、都を長安か
ら後方に遷都しようかと漏らしています。

■一方で、劉備は、曹操陣営の喉元である漢中に侵攻します。

その時、呉の孫権との戦いに手をとられていた曹操は身動きがとれませんで
した。

そもそも、曹操が乱世の覇者となれたのは、機動力が格段に優れていたから
です。

曹操は、自身に忠実な騎兵隊を持ち、自在に操ることができました。相手が
戦闘態勢に入る前に素早く攻め込み各個撃破するというのが、曹操の最も得
意なパターンです。

袁紹や劉備は、過去に幾度もこの機動力の前に敗れ去りました。

しかし、呉や関羽、劉備から波状攻撃に晒される状況は、曹操得意の機動力
を封じられたとも言えます。

ここでも、曹操の弱点を突いた軍師諸葛亮の壮大な戦略が功を奏したと言っ
ていいでしょう。

■劉備は、漢中守備をしていた猛将夏侯淵を撃破し、漢中に砦を築きます。

ようやく呉と講和した曹操が、漢中にやってくるのは、劉備が万全の布陣を
しいた後でした。

■ついに劉備と曹操が雌雄を決する時が来たのです。

劉備陣営を激しく攻める曹操に対して、劉備は火力を武器に用いたようです。

これは諸葛亮の基本戦略でもありました。

諸葛亮は、発明家としても優れ、数々の武器を考案しています。1800年
も前に火力を武器としていたということ自体が驚きですが、彼はそれを曹操
の機動力を封じるために活用しようとしました。

これは、後に武田騎馬隊を封じるために鉄砲隊を使った織田信長の戦略に通
じるものがあります。

しかも曹操が驚いたのは、劉備の戦術の的確さでした。これまでの戦いとは
一味も二味も違う劉備の戦いぶりに曹操は目を見張ります。

実は、この時、劉備には法正という稀代の軍略家が仕えていました。

私怨で政敵を抹殺するなどとかく悪い噂の耐えない法正ですが、彼の軍事指
導は正確無比で、諸葛亮も一目置いていました。

このように、当時は、諸葛亮は直接戦闘指導をすることはありませんでした。
あくまで、全体戦略を諸葛亮が担当し、具体的な行動は劉備が行っていまし
た。

後に曹操は「劉備があれほどやるとは思わなかったが、やはり法正がついて
いたのか」と述懐しています。

攻めあぐねた曹操は、漢中を諦め、撤退します。

216年。劉備は、ここに漢中王を名乗り、三国時代を到来させるのです。

■しかし劉備の勢いは長くは続きませんでした。

あくまで曹操に対抗させる勢力としか見ていなかった劉備が王となることで、
焦燥したのは呉の孫権も同じでした。

孫権は、妹を劉備に嫁がせるなど、両国の関係を深める一方で、貸し与えた
荊州の返還を巡っては揉めていました。

しかも自分の娘を関羽の息子に嫁がせようとして拒否されるなど面目をつぶ
される事件もありました。

曹操の密かな誘いに乗じて、孫権は突如裏切り、曹操との戦いに気をとられ
ている関羽を背後から襲い攻め殺してしまいます。

こうして関羽に対する恨みを晴らすと同時に、荊州の領有を回復します。

まだ若い孫権ですが、この後も、魏と蜀との同盟と離反を繰り返しながら、
のらりくらりと自国を維持するというマキャベリズムを体現していきます。

しかし後継者選びにものらりくらりと態度をはっきりしなかったために、国
内の政治は乱れ、国力を衰退させていきます。

呉そのものは、三国の中で最も長生きするのですが、最後の状況はお寒いも
のだったようです。

■さて義兄弟である関羽を斬られた劉備は怒り狂います。

本来の敵である曹操など眼中になく、孫権憎しの気持ちだけで我を忘れてし
まいます。

諸葛亮や宿将の趙雲(レッドクリフではやたら活躍していましたね^^)で
さえ私怨を捨てるように進言しますが、聞き入れませんでした。

運悪く、張飛や法正も次々と没しますが、それでも劉備を止めることはでき
ませんでした。

劉備はありったけの軍勢を連れて、呉に侵攻します。

劉備の全てを賭けた進軍でした。その勢いはすさまじく、手のつけようがな
い有様でした。

しかし勢いに任せ冷静さを欠いた進軍は、敵の思う壺でもありました。

敵の陣中深く入り込んだ劉備は、いつしか退路を絶たれ、罠にはまったこと
を知ります。

それまで不気味に静まり返っていた敵が突如、四方から火責めを仕掛けてき
たために、劉備はなすすべもありませんでした。

裸一貫から王にまで上り詰めた男も生涯の最後にほぼ全軍を壊滅させるとい
う歴史的な大敗を喫してしまったのです。

失意の劉備は、命からがら白帝城に逃げ込み、そこで生涯を終えたのです。

■劉備は死ぬまぎわ遺言を諸葛亮に託します。涙なしには聞けない言葉です。

「君の才能は魏の曹丕に十倍する。必ずや国に安定をもたらし、統一を果た
してくれると信じている。わが子、劉禅が王の器を持っているようであれば、
これを補佐してほしい。だが、もし補佐するに足りない器だと思ったのなら、
いつでも代わって皇帝になってほしい」

まさに前代未聞の遺言です。

「三国志正史」には、一点の私情もない君臣関係の鏡だと評されています。

一部、劉備が諸葛亮を牽制するための遺言だと捉える向きもありますが、そ
うではないと私は考えます。

諸葛亮とすれば、皇帝になるためのお墨付きをもらったようなものです。

この後、諸葛亮に「そろそろ皇帝になってはどうか」と勧める声は少なくあ
りませんでしたが、諸葛亮はついに生涯をかけて劉禅を守り続けました。

これほど清廉で高潔な人格が他にあるでしょうか。

■しかし、事実上、蜀の命運は決まったも同然でした。

頼みとした軍事力は崩壊し、劉備、関羽、張飛はもういません。

内政を担当する諸葛亮しか残っていないのです。

いくら彼に戦略があろうとも、それを実現するリアルな手段はもうなくなっ
てしまったのです。

誰もがそう思いました。。。

■ところが、中国の歴史上最大の天才は、ここから不死鳥のように蘇り、幾
度も魏を圧倒することになるのです。

素早く呉と同盟を回復すると、抜群の内政能力を発揮し国力を回復させた諸
葛亮は、わずか4年で魏を討伐する軍を進めます。

これまでほとんど実戦を経験したことがなかった男が、6倍の戦力を有する
大国を一方的に攻め続けたのです。

一部には諸葛亮の軍事能力を疑問視する声もあるようですが、結果はともあ
れ、あと一歩のところまで魏を追い詰めた軍事能力が低いはずはありません。

魏は切り札としてもう一人の天才軍師司馬懿を立てますが、司馬懿をもって
しても、持久戦に持ち込むことで精一杯でした。

しかも5度に渡る戦争の中で、諸葛亮は様々な軍事課題を解決し、確実に優
位に戦いを進めるようになっていきました。

諸葛亮の敵は、自分自身の体力だけでした。

もともと身体が弱く仕官に耐えられないと言われていた男は、その使命感だ
けで過酷な遠征に耐え続けていたのです。

しかし西暦234年。秋風の吹く五丈原で、ついに稀代の人物は病に倒れま
す。享年54歳。

ひたすら大儀に燃え、現世的な欲望は一切求めない清廉な生涯でした。

■日本に三国志を紹介した第一人者である吉川英治は「三国志の前半の真の
主人公は曹操であり、後半の主人公は諸葛孔明である」と書いています。

吉川三国志における諸葛亮への思い入れは強いものがありますから、これを
最初に読んだ私としても、諸葛亮びいきになったのは否めませんね。

だから日本人で諸葛亮好きな人が多いのは、吉川英治の影響を受けていると
いうことなんでしょうか。

■諸葛亮なきあとの三国志は急速にテンションを下げてしまいます。

残念ながら、諸葛亮という一人の才能に拠りかかっていた国家は、急速にひ
ずみを露呈し、衰退の道をたどっていきます。

皮肉なことに劉備の息子、劉禅は王の器ではなかったようですね。

そして西暦263年には、魏の侵攻を受けて滅亡します。三国の中で最も早
く姿を消してしまったのです。

■しかし劉備や諸葛亮らの業績が消えることはありません。

彼らの姿は、経営者とその参謀に擬することもできるでしょう。

彼らが最も輝いていたのは、曹操との最終決戦に勝った漢中争奪戦の頃です。

その時、リアルに行動する君主と、冷静に戦略を立てる軍師という役割が的
確に機能していました。

それは組織にとって最も理想的な状態で、まさに「水魚の交わり」だったこ
とでしょう。

■諸葛亮は、実際には「それほど特別な人には見えなかった」と言います。

特段、オーラを発する人物ではなかったようです。

私がコンサルタントにはカリスマ性やはったりは不要だと思う所以でもあり
ます。

圧倒的な知識、冷静な判断力、そして公正で清廉な人格。

こういう人物と共に過ごしたいものですね。

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■たまに経営者の方と話ていると「なぜ、そんなに知識があるのに、自分で
事業を始めないんですか?」と聞かれます。

まあ本音は「どうせ机上の空論なんだろ?コンサルなんて役に立たないよ」
ということなんでしょうか。

■私の答えが、今日の話です。

経営には、泥臭い実行力と、冷徹な計画力が必要になります。

「計画はシンプルに、実行はクレイジーに」というわけです。

曹操のように、すべてを体現できる人ならいいのでしょうが、大抵の場合、
どちらかが得意で、どちらかが不得意です。

得意分野に特化して、不得意分野は補完し合う。

これがシンプルな組織の原則だということです。

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