風林火山を旗印に掲げた武田信玄は、戦略家ではなかったのか?

2017.03.23

(2017年3月23日メルマガより)


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■今回は久しぶりに戦国武将の話です。「真田丸」以来ですね。

ネットで面白い記事を見つけたので紹介いたします。

参考:信玄、信長、家康の軍事政策に見る、現代にも通じる戦略ロジック(文春オンライン)
http://bunshun.jp/articles/-/1673

著名な戦略研究家エドワード・ルトワック氏による日本の戦国武将の評価について書かれた記事です。

武田信玄、織田信長、徳川家康について書かれており、武田信玄のことを「完璧な戦術家」、織田信長のことを「革新的な作戦家」、徳川家康のことを「最高レベルの戦略家」と評価しています。

徳川家康は、言わずと知れた江戸幕府の開祖として戦国時代を終焉させた武将です。

織田信長は、志半ばで倒れたとはいえ天下統一への道筋をつけた戦国の覇王。

武田信玄は、その信長が一目も二目も置いた戦国最強の武将だといわれています

いずれも戦国時代のビッグネームであり、優劣つけがたい存在です。

しかしその評価が分かれたことに興味を持ちました。

■とくに武田信玄のことを「戦術家」といっているところが気になります。

武田信玄といえば、兵法に通じた智者というイメージがあります。旗印に「風林火山」という「孫子」の一節を使用していることからもわかるように、孫子の理解者でもあるはず。

その武将が、戦略家ではなく「戦術家」であるとはどういうことでしょうか。

■ただ「孫子」を学んだ者からすれば、その評価は実は納得できるものでもあります。

武田家の旗印に使われた「風林火山」とはいかなる語句か。

これは孫子第七章「軍争篇」に使われている一節です。

軍争とは、軍を敵より先に戦場に配置すること、と孫子内で述べられています。つまり軍争篇は、きわめて戦術的な色合いが濃いパートであり、軍争の方法、運用、注意点などが書かれています。

該当の部分を引用すると

「故にその疾きこと風の如く、そのしずかなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざるごと山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷の震うが如くして、むかうところを指すに衆を分かち、地をひろむるに利を分かち、権をかけて以て動く。迂直の道を先知する者はこれ軍争の法なり」

(したがって風のように迅速に進撃し、林のように静かに待機し、火が燃えるように急激に侵攻し、山のように居座り、暗闇のように実態を隠し、雷鳴のように突然動きだし、偽りの進路をみせるために部隊を分けて進ませ、占領地を広げるために要地を分けて守らせ、権謀をめぐらせつつ動く。迂回しているのに直進するかのように敵より先に着くことを知る、これこそが軍争の方法である)←「孫子」講談社学術文庫を参考にしました。

参考:孫子 (講談社学術文庫)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061592831/lanchesterkan-22/ref=nosim

だから厳密にいうと旗印には「風林火山陰雷分衆分利」と書くべきでした。

が、それはともかく、ここに書かれているのは、軍を運用する方法や態様についてです。

■武田信玄が、この戦術的な部分を旗印にしたというのは、象徴的です。

そもそも武田信玄も山本勘介も「唐の軍書は日本に合わない」という内容の言葉を残しています。

地理や気候、軍構成や武器が違うので、中国の兵法書に書かれてある作戦がそのまま日本では使えない。という意味のようです。

が、それは当たり前のこと。

「孫子」が3500年もの時を越えて読み継がれているのは、そこに書かれてある"生き残るための考え方"が大いに参考になるからです。

武田信玄は、兵法書に「すぐに使える便利なマニュアル」のようなものを求めたのでしょうか。だとすれば、理解が浅いを言わざるを得ません。

このあたりが武田信玄を「戦術家」と評価する上の記事に同意する所以です。

■武田信玄が戦術家だったという評価は、信玄の側近によって書かれた「甲陽軍鑑」により明確に表れています。

参考:甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480090401/lanchesterkan-22/ref=nosim

そこには戦闘で勝つ・負けないことこそが最強であるという武田家の考え方が示されます

戦闘で勝つためには、一人ひとりの兵士を精強に鍛えなければなりませんし、彼らが力を発揮できるような軍構成も大切です。

武田家の強さとは、兵士を育成し、構成し、戦闘現場において力を発揮できるようにすることであったことが分かります。

武田信玄の有名な「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉をみても、彼が人や組織に重きを置いていたことが分かります。

■私はこのメルマガで何度か「孫子」の話題をとりあげましたが、その価値は、戦争に勝つための方法論ではなく、戦闘に至る前段階に何をすべきかが書かれているところにあるとお伝えしてきました。

参考:戦略がなければ生き残れない(ブログ)「孫子の兵法」カテゴリ
http://blog.livedoor.jp/lanchester_kansai/archives/cat_50029552.html

孫子が目指すのは、戦争に勝つことではなく、国が生きながらえることです。

戦争に勝っても、国が疲弊すれば生きながらえることが危うくなってしまいます。

それならば戦争にならないようにしなければならない。

戦争にならないためには、敵国と偽りの同盟を組むことも厭わず、謀略で陥れ自滅させることも辞さず。

生き残るためには何でもあり。これが孫子の考え方です。

■戦術とは戦闘でいかに行動するかの方法論。

戦略とは、戦闘行為に至る前段階での方法論。

という定義にしたがえば、武田信玄の戦略とは、戦闘で勝つために組織を強化することだと規定できます。

しかし、最後の勝者であった徳川家康は、謀略や調略、同盟を駆使して相手の力を削ぐことをより重視していました。

特に、関ヶ原の戦いや大坂の陣において、戦わずして勝つ方法を追求する姿勢が顕著です。

どちらが孫子の考えに近いかというと、それは明らかでしょう。

徳川家康が「最高レベルの戦略家」と称えられる所以です。

■さらにルトワック氏は、織田信長を「革新的な作戦家」と評価し、武田信玄と徳川家康の間に位置づけられるとしています。

確かに織田信長は、無謀ともいえる戦闘に飛び込むこともありながら、創意工夫で数々の戦闘を勝ちに導いてきた武将です。

もちろん調略や謀略を使うことも多かったようです。

(念のためにいうと、武田信玄も調略や謀略の使い手でした。この点は純粋な戦闘行為だけで名をはせた上杉謙信とは違います)

ところが織田信長は最終的には、相手を武力で制圧し、天下を統一することを目標としていました。

ですから信長は、同盟戦略が下手です。同盟相手を軽視してしまうことが多かったために、裏切られることも多々ありましたし、最期は部下に討たれてしまいました。

この点、味方になれば篤い、敵に回れば怖い、というイメージを一貫して与え続けた徳川家康の方が優れているといえるでしょう。

■かといって、ルトワック氏がいうように織田信長が作戦家だという評価には私はうなずけません。

もともと信長は、"弱い"といわれる尾張の兵を率いていました。そんな弱い兵士の集団で勝つためには、工夫をせざるを得ませんでした。

もとより弱い部隊をいくら鍛えても、生来から強い甲府の兵に勝つのは難しい。

そこで信長の出した答えは、兵隊の数を増やすこと。かつ、強力な武器を持つこと。

そのために、兵数と武器を揃える前提となる経済力を持つことでした。

織田信長の抜群の経済感覚は、交易の要衝地を直轄地にしたり、楽市楽座を目玉政策として採用したりしたことからもうかがえます

その旺盛な経済力が、兵の補充や武器開発や兵站や大がかりな土木工事を可能にし、旧弊勢力を寄せ付けなくさせました。

信長とはつまるところ、経済力を基盤とした覇王だったのです。

ただの作戦家では測れない存在だと考えます。

■その信長の遺志を受け継いだのが、天下統一の達成者である豊臣秀吉です。

秀吉は、信長の方法論をさらに洗練し、進化させました。

すなわち圧倒的な兵力による正攻法を可能にする経済力の保持です

基本的に相手を城に籠らせて取り囲み、兵糧攻めや水攻めにして、戦闘行為なしに屈服させてしまう戦い方を採用しました。

さらには、相手が戦う気をなくすような強大な経済力と兵力を見せつけて、自陣に取り込んでしまい管理下に置くということを繰り返しました

秀吉は、人たらしと称されるほど人間扱いがうまく、接する者のほとんどを魅了したといわれています。一度味方になると、これ以上ないほどの信頼関係を結んでしまうので、裏切られることがありませんでした。

秀吉の手によって、驚くほどのスピードで天下統一が成し遂げられたのは、やはり彼の方法論が優れていたからです。

いわゆる強者の戦略の最高の使い手であり、家康に比べて、スケールが大きな存在だと思えます。

秀吉が老いて衰えた後、家康は最後の粘り勝ちのような形で天下を手に入れたに過ぎないわけですから、どちらかというと、秀吉の方が最高の戦略家であると私は思っています。

■しかし、惜しむらくは、晩年の秀吉の迷走です。

強引な後継者争いを引き起こして豊臣政権を弱体化させたばかりか先の見えない海外派兵により豊臣家への求心力も低下させてしまいました。

こうした迷走は、天下統一後の確固たるビジョンが秀吉にはなかったのではないかという疑念を抱かせます。

明確なビジョンがあり、現状からその目標に向かう道筋が戦略である。という定義を採用するならば、秀吉の戦略は天下統一をするまでしか機能していません。

その点では、350年続いた江戸幕府の開祖である家康には、政権運営の確かなビジョンがあったといえるでしょう。

そのビジョンが、その時、日本が描ける最良のものであったどうかはわかりませんが。

■秀吉の政権運営や海外派兵などは、織田信長のグランドビジョンに沿ったものであると言われています

信長は手元に地球儀を置き、世界における日本を意識できる人物であったようです。

海外からの客人の話を積極的に聞き、情報収集を欠かさず、自分なりの世界観を持っていました。

信長は、日本国内をまとめた後は、中国へ侵攻する考えを抱いていました。

あるいはルソンを通じて、南アジアに版図を広げようとしていたかも知れません。

彼の生涯をみると、それを成し遂げるだけのアイデアと実行力があったのではないかと思えてきます。

いろいろ欠陥の多い人ではありましたが、測り知れないスケールを持った人だったことは確かです。

■織田信長のビジョン構築力とアイデアフルな実行力。

豊臣秀吉のゆるぎない戦略遂行力と人心掌握力。

武田信玄の強固な組織構築力。

結局、これらをバランスよく、いくぶんスケールを小さくして持っていたのが、徳川家康といえるのではないでしょうか。

■戦国時代というのは、時代の究極の変革期です。

庶民の暮らしがどのようなものだったかまではわかりませんが、少なくとも覇を競う武将たちにとって、生き残るためには、持てる能力の全てをフルに使わなければならなかったことでしょう

だからこそ、ルトワック氏の記事にいう通り、彼らの生き残るための知恵は、現代でも十分参考になるものだと思います。

実に学べることが多い時代であり、それだけに興味は尽きませんね。


(2017年3月23日メルマガより)


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■今回は久しぶりに戦国武将の話です。「真田丸」以来ですね。

ネットで面白い記事を見つけたので紹介いたします。

参考:信玄、信長、家康の軍事政策に見る、現代にも通じる戦略ロジック(文春オンライン)
http://bunshun.jp/articles/-/1673

著名な戦略研究家エドワード・ルトワック氏による日本の戦国武将の評価について書かれた記事です。

武田信玄、織田信長、徳川家康について書かれており、武田信玄のことを「完璧な戦術家」、織田信長のことを「革新的な作戦家」、徳川家康のことを「最高レベルの戦略家」と評価しています。

徳川家康は、言わずと知れた江戸幕府の開祖として戦国時代を終焉させた武将です。

織田信長は、志半ばで倒れたとはいえ天下統一への道筋をつけた戦国の覇王。

武田信玄は、その信長が一目も二目も置いた戦国最強の武将だといわれています

いずれも戦国時代のビッグネームであり、優劣つけがたい存在です。

しかしその評価が分かれたことに興味を持ちました。

■とくに武田信玄のことを「戦術家」といっているところが気になります。

武田信玄といえば、兵法に通じた智者というイメージがあります。旗印に「風林火山」という「孫子」の一節を使用していることからもわかるように、孫子の理解者でもあるはず。

その武将が、戦略家ではなく「戦術家」であるとはどういうことでしょうか。

■ただ「孫子」を学んだ者からすれば、その評価は実は納得できるものでもあります。

武田家の旗印に使われた「風林火山」とはいかなる語句か。

これは孫子第七章「軍争篇」に使われている一節です。

軍争とは、軍を敵より先に戦場に配置すること、と孫子内で述べられています。つまり軍争篇は、きわめて戦術的な色合いが濃いパートであり、軍争の方法、運用、注意点などが書かれています。

該当の部分を引用すると

「故にその疾きこと風の如く、そのしずかなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざるごと山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷の震うが如くして、むかうところを指すに衆を分かち、地をひろむるに利を分かち、権をかけて以て動く。迂直の道を先知する者はこれ軍争の法なり」

(したがって風のように迅速に進撃し、林のように静かに待機し、火が燃えるように急激に侵攻し、山のように居座り、暗闇のように実態を隠し、雷鳴のように突然動きだし、偽りの進路をみせるために部隊を分けて進ませ、占領地を広げるために要地を分けて守らせ、権謀をめぐらせつつ動く。迂回しているのに直進するかのように敵より先に着くことを知る、これこそが軍争の方法である)←「孫子」講談社学術文庫を参考にしました。

参考:孫子 (講談社学術文庫)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061592831/lanchesterkan-22/ref=nosim

だから厳密にいうと旗印には「風林火山陰雷分衆分利」と書くべきでした。

が、それはともかく、ここに書かれているのは、軍を運用する方法や態様についてです。

■武田信玄が、この戦術的な部分を旗印にしたというのは、象徴的です。

そもそも武田信玄も山本勘介も「唐の軍書は日本に合わない」という内容の言葉を残しています。

地理や気候、軍構成や武器が違うので、中国の兵法書に書かれてある作戦がそのまま日本では使えない。という意味のようです。

が、それは当たり前のこと。

「孫子」が3500年もの時を越えて読み継がれているのは、そこに書かれてある"生き残るための考え方"が大いに参考になるからです。

武田信玄は、兵法書に「すぐに使える便利なマニュアル」のようなものを求めたのでしょうか。だとすれば、理解が浅いを言わざるを得ません。

このあたりが武田信玄を「戦術家」と評価する上の記事に同意する所以です。

■武田信玄が戦術家だったという評価は、信玄の側近によって書かれた「甲陽軍鑑」により明確に表れています。

参考:甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480090401/lanchesterkan-22/ref=nosim

そこには戦闘で勝つ・負けないことこそが最強であるという武田家の考え方が示されます

戦闘で勝つためには、一人ひとりの兵士を精強に鍛えなければなりませんし、彼らが力を発揮できるような軍構成も大切です。

武田家の強さとは、兵士を育成し、構成し、戦闘現場において力を発揮できるようにすることであったことが分かります。

武田信玄の有名な「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉をみても、彼が人や組織に重きを置いていたことが分かります。

■私はこのメルマガで何度か「孫子」の話題をとりあげましたが、その価値は、戦争に勝つための方法論ではなく、戦闘に至る前段階に何をすべきかが書かれているところにあるとお伝えしてきました。

参考:戦略がなければ生き残れない(ブログ)「孫子の兵法」カテゴリ
http://blog.livedoor.jp/lanchester_kansai/archives/cat_50029552.html

孫子が目指すのは、戦争に勝つことではなく、国が生きながらえることです。

戦争に勝っても、国が疲弊すれば生きながらえることが危うくなってしまいます。

それならば戦争にならないようにしなければならない。

戦争にならないためには、敵国と偽りの同盟を組むことも厭わず、謀略で陥れ自滅させることも辞さず。

生き残るためには何でもあり。これが孫子の考え方です。

■戦術とは戦闘でいかに行動するかの方法論。

戦略とは、戦闘行為に至る前段階での方法論。

という定義にしたがえば、武田信玄の戦略とは、戦闘で勝つために組織を強化することだと規定できます。

しかし、最後の勝者であった徳川家康は、謀略や調略、同盟を駆使して相手の力を削ぐことをより重視していました。

特に、関ヶ原の戦いや大坂の陣において、戦わずして勝つ方法を追求する姿勢が顕著です。

どちらが孫子の考えに近いかというと、それは明らかでしょう。

徳川家康が「最高レベルの戦略家」と称えられる所以です。

■さらにルトワック氏は、織田信長を「革新的な作戦家」と評価し、武田信玄と徳川家康の間に位置づけられるとしています。

確かに織田信長は、無謀ともいえる戦闘に飛び込むこともありながら、創意工夫で数々の戦闘を勝ちに導いてきた武将です。

もちろん調略や謀略を使うことも多かったようです。

(念のためにいうと、武田信玄も調略や謀略の使い手でした。この点は純粋な戦闘行為だけで名をはせた上杉謙信とは違います)

ところが織田信長は最終的には、相手を武力で制圧し、天下を統一することを目標としていました。

ですから信長は、同盟戦略が下手です。同盟相手を軽視してしまうことが多かったために、裏切られることも多々ありましたし、最期は部下に討たれてしまいました。

この点、味方になれば篤い、敵に回れば怖い、というイメージを一貫して与え続けた徳川家康の方が優れているといえるでしょう。

■かといって、ルトワック氏がいうように織田信長が作戦家だという評価には私はうなずけません。

もともと信長は、"弱い"といわれる尾張の兵を率いていました。そんな弱い兵士の集団で勝つためには、工夫をせざるを得ませんでした。

もとより弱い部隊をいくら鍛えても、生来から強い甲府の兵に勝つのは難しい。

そこで信長の出した答えは、兵隊の数を増やすこと。かつ、強力な武器を持つこと。

そのために、兵数と武器を揃える前提となる経済力を持つことでした。

織田信長の抜群の経済感覚は、交易の要衝地を直轄地にしたり、楽市楽座を目玉政策として採用したりしたことからもうかがえます

その旺盛な経済力が、兵の補充や武器開発や兵站や大がかりな土木工事を可能にし、旧弊勢力を寄せ付けなくさせました。

信長とはつまるところ、経済力を基盤とした覇王だったのです。

ただの作戦家では測れない存在だと考えます。

■その信長の遺志を受け継いだのが、天下統一の達成者である豊臣秀吉です。

秀吉は、信長の方法論をさらに洗練し、進化させました。

すなわち圧倒的な兵力による正攻法を可能にする経済力の保持です

基本的に相手を城に籠らせて取り囲み、兵糧攻めや水攻めにして、戦闘行為なしに屈服させてしまう戦い方を採用しました。

さらには、相手が戦う気をなくすような強大な経済力と兵力を見せつけて、自陣に取り込んでしまい管理下に置くということを繰り返しました

秀吉は、人たらしと称されるほど人間扱いがうまく、接する者のほとんどを魅了したといわれています。一度味方になると、これ以上ないほどの信頼関係を結んでしまうので、裏切られることがありませんでした。

秀吉の手によって、驚くほどのスピードで天下統一が成し遂げられたのは、やはり彼の方法論が優れていたからです。

いわゆる強者の戦略の最高の使い手であり、家康に比べて、スケールが大きな存在だと思えます。

秀吉が老いて衰えた後、家康は最後の粘り勝ちのような形で天下を手に入れたに過ぎないわけですから、どちらかというと、秀吉の方が最高の戦略家であると私は思っています。

■しかし、惜しむらくは、晩年の秀吉の迷走です。

強引な後継者争いを引き起こして豊臣政権を弱体化させたばかりか先の見えない海外派兵により豊臣家への求心力も低下させてしまいました。

こうした迷走は、天下統一後の確固たるビジョンが秀吉にはなかったのではないかという疑念を抱かせます。

明確なビジョンがあり、現状からその目標に向かう道筋が戦略である。という定義を採用するならば、秀吉の戦略は天下統一をするまでしか機能していません。

その点では、350年続いた江戸幕府の開祖である家康には、政権運営の確かなビジョンがあったといえるでしょう。

そのビジョンが、その時、日本が描ける最良のものであったどうかはわかりませんが。

■秀吉の政権運営や海外派兵などは、織田信長のグランドビジョンに沿ったものであると言われています

信長は手元に地球儀を置き、世界における日本を意識できる人物であったようです。

海外からの客人の話を積極的に聞き、情報収集を欠かさず、自分なりの世界観を持っていました。

信長は、日本国内をまとめた後は、中国へ侵攻する考えを抱いていました。

あるいはルソンを通じて、南アジアに版図を広げようとしていたかも知れません。

彼の生涯をみると、それを成し遂げるだけのアイデアと実行力があったのではないかと思えてきます。

いろいろ欠陥の多い人ではありましたが、測り知れないスケールを持った人だったことは確かです。

■織田信長のビジョン構築力とアイデアフルな実行力。

豊臣秀吉のゆるぎない戦略遂行力と人心掌握力。

武田信玄の強固な組織構築力。

結局、これらをバランスよく、いくぶんスケールを小さくして持っていたのが、徳川家康といえるのではないでしょうか。

■戦国時代というのは、時代の究極の変革期です。

庶民の暮らしがどのようなものだったかまではわかりませんが、少なくとも覇を競う武将たちにとって、生き残るためには、持てる能力の全てをフルに使わなければならなかったことでしょう

だからこそ、ルトワック氏の記事にいう通り、彼らの生き残るための知恵は、現代でも十分参考になるものだと思います。

実に学べることが多い時代であり、それだけに興味は尽きませんね。


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