「坂の上の雲」を越えていこう

2011.12.29

(2011年12月29日メルマガより)


■NHKが総力を上げて製作したドラマ「坂の上の雲」が、先の日曜日をも
って最終回を迎えました。

足かけ3年です。

大河ドラマ枠の12月分を使って放映するという奇妙なスタイルを3年も続
けていたわけですが、全13回×90分を私は1度もテンションを切らすこ
となく観させていただきました。

豪華な俳優陣の熱演といい、映像の迫力といい、久石譲の音楽といい、渡辺
謙のナレーションといい近年にない力作として十分に堪能させていただきま
した。

だから最終回にかける期待は大きく、正座してテレビの前に待っていた程で
す^^

■私は、もともと司馬遼太郎の原作のファンでした。

「坂の上の雲」は、1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけて産
経新聞に連載された小説です。(wikipediaによる)

著者の数多い作品の中でも、代表作といっていいスケールと内容を備えてい
ます。

発表当時から反響が大きく、映像化のオファーが多数きていたのですが、司
馬遼太郎は「戦争賛美のように描かれたくない」という理由でことわり続け
ていたようです。

それを21世紀の今日、NHKが総力を上げて製作するというのですから、
どんな内容になるのだろうと期待しないわけにはいきませんわな。

■まあ、結果からいうと、期待ほどではありませんでした。

というか、期待外れでした。

特に最終回はやる気がみられなかったですねーー^^;

私は、今回、なぜこのドラマが期待外れだったのかをいろいろ考えてみました。

その前に、このドラマに何を期待していたのだろうかということも考えなけ
ればなりません。

そして、私は長年にわたる「坂の上の雲」という物語(が持つコンセプト)
への思いを払拭することにしました。

今回のメルマガでは、そのことについて書きたいと思います。。

■今回のNHKドラマ、何が素晴らしかったといって、冒頭に流れる渡辺謙
のナレーションほど素晴らしいものはなかったでしょう。

これは、本当に、日本のドラマ史に残る名ナレーションではなかったでしょ
うか。

長いですけど引用させていただきます。

★

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。

産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった
旧士族しかなかった。

明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。

誰もが「国民」になった。

不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者とし
て、その新鮮さに昂揚した。

この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。

社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために
必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にも
成り得た。

この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。

今から思えば、実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の
連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。

陸軍も同様である。

財政の成り立つはずがない。

が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的
であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。

この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシア
と対決し、どのように振舞ったかという物語である。

主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、
ともかくも我々は三人の人物の跡を追わねばならない。

四国は、伊予松山に三人の男がいた。

この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は
不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを
実施した。

その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサ
ック師団を破るという奇跡を遂げた。

もう一人は、俳句・短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、その中
興の祖となった俳人正岡子規である。

彼らは明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。

上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、そ
れのみを見つめて、坂を上っていくであろう。

http://www.youtube.com/watch?v=j6Jwc4S3idI(youtube)

★

司馬遼太郎の小説から引用した文をコラージュしたナレーションですが、こ
れはこの作品のコンセプトを見事に表しています。

まさに私が、長い間、魅了されていたコンセプトです。

■司馬遼太郎は、この作品を書くにあたっては、事実として確認できたもの
しか採用しなかったと語っています。

記録文学か、ドキュメンタリーのようなものを想像するかも知れませんが、
やはりこの作品は、あくまで司馬遼太郎の小説であり、1つの解釈の上に書
かれたものです。

彼のコンセプトは、当時の日本を「まことに小さな国」として描くことでした。

ヨーロッパ先進諸国から見れば、まことに小さな国が、無理に無理を重ねて
近代国家たらんとし、歴史上に起こした奇跡を、ある種のいじらしさ、切な
さ、愛着をこめて、描いています。

そのコンセプトに私は、日本人としてのプライドをくすぐられながら、魅了
されています。

我々の祖先は、こうした困難な道を経て、今に至る道を突き進んだのだと思
いたい自分があります。

■非常に困難な状況において、現実的な成果を求めて痛ましい努力をする人間。

それは司馬遼太郎の小説に繰り返し登場する主人公像です。

「国盗り物語」の斎藤道三、織田信長にはじまり、「関ヶ原」の石田光成、
「城塞」の真田幸村、「竜馬がゆく」の坂本龍馬、「項羽と劉邦」の劉邦など。

そして、その主人公像の最も大きなものが、「坂の上の雲」における近代日
本そのものです。

ドラマにおけるナレーションにみるように、「坂の上の雲」とは、まことに
小さな国であった日本が夢見たヨーロッパ先進国のような近代国家像でした。

■この小説が新聞連載された1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)と
いえば、日本が戦後復興を終えて高度成長の坂をかけ上っていた時代です。

まさに、時代の空気とマッチする作品であったと思います。

しかし、2010年代の日本はその課題を大きく変えてしまっています。

少子高齢化により、国内需要の縮小は、避けられません。

海外の需要や供給力を取り込むためにも、再び大がかりな開国を求められて
います。

国の形を大きく変えなければならない転換点にあって、以前のような「お手本」
となる国は見当たりません。

今日の我々にとって「坂の上の雲」とは何なのか?

NHKのことだから、その意味を最終回に示してくれるものと期待していた
のですが...

そうした期待を叶えられることはまるでありませんでした。

■もっとも「坂の上の雲」という概念は、決して特殊な時代にのみ有効なも
のではありません。

例えば、物語にも登場する夏目漱石と並び称される明治期の文豪、森鷗外の
小説に「安井夫人」というものがあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/696_23260.html

まあ、劇的な展開の殆どない一見退屈な小説です。

森鷗外にはそういうの多いですね^^;

これは、江戸末期の有名な儒学者である安井息軒の夫人であった佐代を主人公
とした伝記小説めいたものです。

■安井息軒は勉強熱心でしたが、若い頃の疱瘡が元で片目が潰れて醜い容貌
となっていました。

30歳になっても嫁がない息軒の元にやってきたのが、美貌の誉れ高い16歳
の川添佐代でした。

もともとは姉にきた縁談でしたが、姉が嫌がったのを妹の佐代が自ら名乗り
出たのです。

■劇的なのはその部分だけです。後は事実関係を端々と書いています。

著名な儒学者といっても生活が裕福なわけではありません。

佐代は、質素な生活の中、何ら要求をせずに、夫よりも早く亡くなってしま
います。

鷗外は、そんな佐代の生涯をある感嘆の思いをこめて振り返ります。

引用させていただきます。

★

お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言って
しまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しか
しもし商人が資本をおろし財利を謀るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを
夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくし
は不敏にしてそれに同意することが出来ない。
 お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するま
で、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不
幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、
あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。

★

私は、この文章を読んで、感動を禁じえません。

ここには、目先の慾よりも抽象的で大きなもののために自らを犠牲にできる
人間の崇高な性質が描かれていると思うからです。

そして、本人でさえ「あるいは何物ともしかと弁識していなかった」望みの
対象--

それこそ「坂の上の雲」であったと感じます。

■司馬遼太郎は、自分が小説を書くようになったきっかけは、1945年8月15
日のある感慨にあったと述べています。

それは「馬鹿な国に生まれたもんだ」という感慨でした。

アメリカを相手に勝ち目のない戦争をしかけて、国民を圧迫して情報統制し、
無条件降伏せざるを得ないまでに至った国ですから、そう思うのも無理はない。

まだ20歳代の司馬遼太郎は「織田信長だったら、こんな戦争をしていただろ
うか」と考えたそうです。

生き残ることに敏感な戦国武将なら、勝ち目のない戦いなど避けるでしょう。

特に織田信長は、武田信玄や上杉謙信など、強い相手に対しては、卑屈にへ
りくだっています。生き残るためにはプライドなどない。

豊臣秀吉はさらに現実的です。自分より兵力数の多い相手とは、絶対に戦お
うとはしませんでした。

「いつから日本は、馬鹿な国になってしまったのだろうか。それまでの日本
はそんな馬鹿な国ではなかったはずだ」その思いから、司馬遼太郎は歴史小
説を書くようになったのだと言っています。

彼の思い描く馬鹿な国でなかった日本の最後の輝きが、明治維新から日露戦
争に至るまでの数年間でした。

その数年間を過ごす人々を、司馬遼太郎は、願望も込めながら「前のみを見
つめながら歩く」姿として描きました。

そのコンセプトは、21世紀の我々を魅了し、遠くは明治期(実際には大正
3年)の森鷗外にも通じています。

■ただし、理想像を描くだけでは、何ら問題解決にはなりません。

司馬遼太郎は、40歳代をかけてこの作品を書き上げましたが、その後、エ
ッセイや講演などで、書き残したことなどをしばしば取り上げました。

参考「司馬遼太郎全講演(5)

日露戦争は、決して日本が大勝利したわけではありません。優勢な局面で講
和に持ち込めたという結末です。

当時の日本軍は、まさかロシアととことん戦争して勝てるなどとは思ってい
ませんでした。潮目を神経質に見極めていたわけです。

司馬遼太郎によると、日本軍がリアリズムを持っていたのはその時までで、
日露戦後、日本軍は軍事的な行動の検証を殆どしなかった、どころか、失敗
を隠ぺいしようとしたらしい。

海軍がバルチック艦隊を完全に撃滅したのは事実ですが、陸軍の優勢はむし
ろロシアの戦術的な撤退の側面も少なからずあったようです。

もともとロシアは、引いて引いて、相手が深みにはまったところを反撃する
という戦法が得意です。その流れに従っていたとも見ることができます。

バルチック艦隊の全滅というまさかがなければ、戦争は終わらなかったでし
ょう。

ところが「日本はロシアより強いから勝った」などという無根拠な神話がで
きてしまって、昭和の破滅戦争につながってしまったというのが司馬遼太郎
の主張でした。

■実際には、1つの国が急に愚かになるわけではない。

明治、大正、昭和と続く歴史には連続性があるはずですから、日露戦争の時
代にも、昭和の破滅に向かう素地はあったはずです。

どんな国にでも、人間にでも、多様性があります。その多様性が、周りの環
境に応じて、どのように作用するのかで、国や人間の行く末が変わります。

周りの環境が変われば、自分の持っているどの要素を前面に打ち出していく
のかを変えなければ、思う方向へ進むことができません。

それが戦略--目標を定め、未来に向けて課題を洗い出し、やるべきことを
決める--に他なりません。

それがなされずに、特定の環境における成功事例だけを既成事実化してしま
えば、破滅に向かうのは火を見るより明らかです。

明治期にあれほど合理的であった日本軍が、昭和になってなぜ精神論を前面
に押し出すようになってしまったのか。

それが司馬遼太郎の悲嘆だったようですが、戦略立案を仕事にする者の推測
として、それは日本軍が変わったのではなく、周りの環境が変わったために、
日本軍の悪い部分が目立ってしまったということではないか。

残念ながら、司馬遼太郎も、その事実を嘆くばかりで、課題に正面から取り
組もうとしませんでした。

ある講演録では、ノモンハンでの戦いを小説にしようと調べた時期もあった
のだが、精神衛生に良くないので止めてしまったと述べています。

私には、それは問題からの逃避にように思えてしまいます。

■2011年は、東日本大震災の年として記憶に残ることとなりました。

地震と津波、それに続く原発事故により、我々の意識も否応なしに一新せざ
るを得なくなりました。

住んでいる町や家、空気といったものが、一瞬にして物理的に安全ではなく
なるという事実がそこにあります。

そして、その急激な危機に既存の規範や体制では対応できないということに
気づきました。

実をいうと、日本は、長い下り坂の途中にあります。

いわゆる少子高齢化やグローバル経済の時代に、我々の社会は、うまく順応
することが出来ていませんでした。(あるいは乗り遅れつつありました)

大きな危機であっても、それが緩やかならば、目先の既得権益を守る方に意
識が向かいます。

なにしろ既得権益者は、パイの縮小には目をくれず、自分の取り分の大きさ
ばかりに注力していますから。

それが、2011年は、パイそのものが消えてしまうのだということを、圧倒的
な現実として見せられたのです。

さすがに多くの人が危機感を持たざるを得なかったはずです。

これで気づかない人は、社会の仕組みの大切な部位からは退いてもらわない
と、社会のためになりませんよね。

■今回、「坂の上の雲」というドラマと小説をめぐって、このメルマガを書
くにあたり、いろいろ考えさせていただきました。

この物語のファンの方には申し訳ないのですが(もちろん私もその1人なの
ですが)いつまでもこの物語のコンセプトに止まっているわけにはいきません。

今は、この物語の先に進まなければならない時期だと思います。

先人が築き上げてきたものを壊して1から作り直すのか。あるいは、先人の
業績を検証して、課題を修正していくのか。

明治維新から日露戦争という数年間の成功体験を後生大事に抱き続けたとい
う失敗から我々は学ばなければなりません。

我々も、個別の局面で様々なレベルの成功体験を積み上げてきているはずです。

それをいかに捨てて、あるいは検証して、新しい規範や体制を築いていくのか。

それが我々がやるべきことです。

■もうこの数年、我々は、ずっと転換点といわれる時代を過ごしてきています。

転換点で、重要になるのは戦略--目標を定め、未来に向けて課題を洗い出
し、やるべきことを決める--です。

でも、ここのところ、転換点慣れしてきたのかも知れませんよ^^

だから、黙って目の前のことをやる。無我夢中でやる。といったことに逃げ
込まないように注意しないといけません。

周りに順応して、人間関係だけに注力するということにも逃げないようにし
なければなりません。

腹を括って、今、やるべきことに自分を追い立てていきたい。

2012年に向けて、そう考えたいと思います。



(2011年12月29日メルマガより)


■NHKが総力を上げて製作したドラマ「坂の上の雲」が、先の日曜日をも
って最終回を迎えました。

足かけ3年です。

大河ドラマ枠の12月分を使って放映するという奇妙なスタイルを3年も続
けていたわけですが、全13回×90分を私は1度もテンションを切らすこ
となく観させていただきました。

豪華な俳優陣の熱演といい、映像の迫力といい、久石譲の音楽といい、渡辺
謙のナレーションといい近年にない力作として十分に堪能させていただきま
した。

だから最終回にかける期待は大きく、正座してテレビの前に待っていた程で
す^^

■私は、もともと司馬遼太郎の原作のファンでした。

「坂の上の雲」は、1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけて産
経新聞に連載された小説です。(wikipediaによる)

著者の数多い作品の中でも、代表作といっていいスケールと内容を備えてい
ます。

発表当時から反響が大きく、映像化のオファーが多数きていたのですが、司
馬遼太郎は「戦争賛美のように描かれたくない」という理由でことわり続け
ていたようです。

それを21世紀の今日、NHKが総力を上げて製作するというのですから、
どんな内容になるのだろうと期待しないわけにはいきませんわな。

■まあ、結果からいうと、期待ほどではありませんでした。

というか、期待外れでした。

特に最終回はやる気がみられなかったですねーー^^;

私は、今回、なぜこのドラマが期待外れだったのかをいろいろ考えてみました。

その前に、このドラマに何を期待していたのだろうかということも考えなけ
ればなりません。

そして、私は長年にわたる「坂の上の雲」という物語(が持つコンセプト)
への思いを払拭することにしました。

今回のメルマガでは、そのことについて書きたいと思います。。

■今回のNHKドラマ、何が素晴らしかったといって、冒頭に流れる渡辺謙
のナレーションほど素晴らしいものはなかったでしょう。

これは、本当に、日本のドラマ史に残る名ナレーションではなかったでしょ
うか。

長いですけど引用させていただきます。

★

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。

産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった
旧士族しかなかった。

明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。

誰もが「国民」になった。

不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者とし
て、その新鮮さに昂揚した。

この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。

社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために
必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にも
成り得た。

この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。

今から思えば、実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の
連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。

陸軍も同様である。

財政の成り立つはずがない。

が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的
であったし、維新後の新国民たちの少年のような希望であった。

この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシア
と対決し、どのように振舞ったかという物語である。

主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、
ともかくも我々は三人の人物の跡を追わねばならない。

四国は、伊予松山に三人の男がいた。

この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は
不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを
実施した。

その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサ
ック師団を破るという奇跡を遂げた。

もう一人は、俳句・短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、その中
興の祖となった俳人正岡子規である。

彼らは明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。

上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、そ
れのみを見つめて、坂を上っていくであろう。

http://www.youtube.com/watch?v=j6Jwc4S3idI(youtube)

★

司馬遼太郎の小説から引用した文をコラージュしたナレーションですが、こ
れはこの作品のコンセプトを見事に表しています。

まさに私が、長い間、魅了されていたコンセプトです。

■司馬遼太郎は、この作品を書くにあたっては、事実として確認できたもの
しか採用しなかったと語っています。

記録文学か、ドキュメンタリーのようなものを想像するかも知れませんが、
やはりこの作品は、あくまで司馬遼太郎の小説であり、1つの解釈の上に書
かれたものです。

彼のコンセプトは、当時の日本を「まことに小さな国」として描くことでした。

ヨーロッパ先進諸国から見れば、まことに小さな国が、無理に無理を重ねて
近代国家たらんとし、歴史上に起こした奇跡を、ある種のいじらしさ、切な
さ、愛着をこめて、描いています。

そのコンセプトに私は、日本人としてのプライドをくすぐられながら、魅了
されています。

我々の祖先は、こうした困難な道を経て、今に至る道を突き進んだのだと思
いたい自分があります。

■非常に困難な状況において、現実的な成果を求めて痛ましい努力をする人間。

それは司馬遼太郎の小説に繰り返し登場する主人公像です。

「国盗り物語」の斎藤道三、織田信長にはじまり、「関ヶ原」の石田光成、
「城塞」の真田幸村、「竜馬がゆく」の坂本龍馬、「項羽と劉邦」の劉邦など。

そして、その主人公像の最も大きなものが、「坂の上の雲」における近代日
本そのものです。

ドラマにおけるナレーションにみるように、「坂の上の雲」とは、まことに
小さな国であった日本が夢見たヨーロッパ先進国のような近代国家像でした。

■この小説が新聞連載された1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)と
いえば、日本が戦後復興を終えて高度成長の坂をかけ上っていた時代です。

まさに、時代の空気とマッチする作品であったと思います。

しかし、2010年代の日本はその課題を大きく変えてしまっています。

少子高齢化により、国内需要の縮小は、避けられません。

海外の需要や供給力を取り込むためにも、再び大がかりな開国を求められて
います。

国の形を大きく変えなければならない転換点にあって、以前のような「お手本」
となる国は見当たりません。

今日の我々にとって「坂の上の雲」とは何なのか?

NHKのことだから、その意味を最終回に示してくれるものと期待していた
のですが...

そうした期待を叶えられることはまるでありませんでした。

■もっとも「坂の上の雲」という概念は、決して特殊な時代にのみ有効なも
のではありません。

例えば、物語にも登場する夏目漱石と並び称される明治期の文豪、森鷗外の
小説に「安井夫人」というものがあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/696_23260.html

まあ、劇的な展開の殆どない一見退屈な小説です。

森鷗外にはそういうの多いですね^^;

これは、江戸末期の有名な儒学者である安井息軒の夫人であった佐代を主人公
とした伝記小説めいたものです。

■安井息軒は勉強熱心でしたが、若い頃の疱瘡が元で片目が潰れて醜い容貌
となっていました。

30歳になっても嫁がない息軒の元にやってきたのが、美貌の誉れ高い16歳
の川添佐代でした。

もともとは姉にきた縁談でしたが、姉が嫌がったのを妹の佐代が自ら名乗り
出たのです。

■劇的なのはその部分だけです。後は事実関係を端々と書いています。

著名な儒学者といっても生活が裕福なわけではありません。

佐代は、質素な生活の中、何ら要求をせずに、夫よりも早く亡くなってしま
います。

鷗外は、そんな佐代の生涯をある感嘆の思いをこめて振り返ります。

引用させていただきます。

★

お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言って
しまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しか
しもし商人が資本をおろし財利を謀るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを
夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくし
は不敏にしてそれに同意することが出来ない。
 お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するま
で、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不
幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、
あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。

★

私は、この文章を読んで、感動を禁じえません。

ここには、目先の慾よりも抽象的で大きなもののために自らを犠牲にできる
人間の崇高な性質が描かれていると思うからです。

そして、本人でさえ「あるいは何物ともしかと弁識していなかった」望みの
対象--

それこそ「坂の上の雲」であったと感じます。

■司馬遼太郎は、自分が小説を書くようになったきっかけは、1945年8月15
日のある感慨にあったと述べています。

それは「馬鹿な国に生まれたもんだ」という感慨でした。

アメリカを相手に勝ち目のない戦争をしかけて、国民を圧迫して情報統制し、
無条件降伏せざるを得ないまでに至った国ですから、そう思うのも無理はない。

まだ20歳代の司馬遼太郎は「織田信長だったら、こんな戦争をしていただろ
うか」と考えたそうです。

生き残ることに敏感な戦国武将なら、勝ち目のない戦いなど避けるでしょう。

特に織田信長は、武田信玄や上杉謙信など、強い相手に対しては、卑屈にへ
りくだっています。生き残るためにはプライドなどない。

豊臣秀吉はさらに現実的です。自分より兵力数の多い相手とは、絶対に戦お
うとはしませんでした。

「いつから日本は、馬鹿な国になってしまったのだろうか。それまでの日本
はそんな馬鹿な国ではなかったはずだ」その思いから、司馬遼太郎は歴史小
説を書くようになったのだと言っています。

彼の思い描く馬鹿な国でなかった日本の最後の輝きが、明治維新から日露戦
争に至るまでの数年間でした。

その数年間を過ごす人々を、司馬遼太郎は、願望も込めながら「前のみを見
つめながら歩く」姿として描きました。

そのコンセプトは、21世紀の我々を魅了し、遠くは明治期(実際には大正
3年)の森鷗外にも通じています。

■ただし、理想像を描くだけでは、何ら問題解決にはなりません。

司馬遼太郎は、40歳代をかけてこの作品を書き上げましたが、その後、エ
ッセイや講演などで、書き残したことなどをしばしば取り上げました。

参考「司馬遼太郎全講演(5)

日露戦争は、決して日本が大勝利したわけではありません。優勢な局面で講
和に持ち込めたという結末です。

当時の日本軍は、まさかロシアととことん戦争して勝てるなどとは思ってい
ませんでした。潮目を神経質に見極めていたわけです。

司馬遼太郎によると、日本軍がリアリズムを持っていたのはその時までで、
日露戦後、日本軍は軍事的な行動の検証を殆どしなかった、どころか、失敗
を隠ぺいしようとしたらしい。

海軍がバルチック艦隊を完全に撃滅したのは事実ですが、陸軍の優勢はむし
ろロシアの戦術的な撤退の側面も少なからずあったようです。

もともとロシアは、引いて引いて、相手が深みにはまったところを反撃する
という戦法が得意です。その流れに従っていたとも見ることができます。

バルチック艦隊の全滅というまさかがなければ、戦争は終わらなかったでし
ょう。

ところが「日本はロシアより強いから勝った」などという無根拠な神話がで
きてしまって、昭和の破滅戦争につながってしまったというのが司馬遼太郎
の主張でした。

■実際には、1つの国が急に愚かになるわけではない。

明治、大正、昭和と続く歴史には連続性があるはずですから、日露戦争の時
代にも、昭和の破滅に向かう素地はあったはずです。

どんな国にでも、人間にでも、多様性があります。その多様性が、周りの環
境に応じて、どのように作用するのかで、国や人間の行く末が変わります。

周りの環境が変われば、自分の持っているどの要素を前面に打ち出していく
のかを変えなければ、思う方向へ進むことができません。

それが戦略--目標を定め、未来に向けて課題を洗い出し、やるべきことを
決める--に他なりません。

それがなされずに、特定の環境における成功事例だけを既成事実化してしま
えば、破滅に向かうのは火を見るより明らかです。

明治期にあれほど合理的であった日本軍が、昭和になってなぜ精神論を前面
に押し出すようになってしまったのか。

それが司馬遼太郎の悲嘆だったようですが、戦略立案を仕事にする者の推測
として、それは日本軍が変わったのではなく、周りの環境が変わったために、
日本軍の悪い部分が目立ってしまったということではないか。

残念ながら、司馬遼太郎も、その事実を嘆くばかりで、課題に正面から取り
組もうとしませんでした。

ある講演録では、ノモンハンでの戦いを小説にしようと調べた時期もあった
のだが、精神衛生に良くないので止めてしまったと述べています。

私には、それは問題からの逃避にように思えてしまいます。

■2011年は、東日本大震災の年として記憶に残ることとなりました。

地震と津波、それに続く原発事故により、我々の意識も否応なしに一新せざ
るを得なくなりました。

住んでいる町や家、空気といったものが、一瞬にして物理的に安全ではなく
なるという事実がそこにあります。

そして、その急激な危機に既存の規範や体制では対応できないということに
気づきました。

実をいうと、日本は、長い下り坂の途中にあります。

いわゆる少子高齢化やグローバル経済の時代に、我々の社会は、うまく順応
することが出来ていませんでした。(あるいは乗り遅れつつありました)

大きな危機であっても、それが緩やかならば、目先の既得権益を守る方に意
識が向かいます。

なにしろ既得権益者は、パイの縮小には目をくれず、自分の取り分の大きさ
ばかりに注力していますから。

それが、2011年は、パイそのものが消えてしまうのだということを、圧倒的
な現実として見せられたのです。

さすがに多くの人が危機感を持たざるを得なかったはずです。

これで気づかない人は、社会の仕組みの大切な部位からは退いてもらわない
と、社会のためになりませんよね。

■今回、「坂の上の雲」というドラマと小説をめぐって、このメルマガを書
くにあたり、いろいろ考えさせていただきました。

この物語のファンの方には申し訳ないのですが(もちろん私もその1人なの
ですが)いつまでもこの物語のコンセプトに止まっているわけにはいきません。

今は、この物語の先に進まなければならない時期だと思います。

先人が築き上げてきたものを壊して1から作り直すのか。あるいは、先人の
業績を検証して、課題を修正していくのか。

明治維新から日露戦争という数年間の成功体験を後生大事に抱き続けたとい
う失敗から我々は学ばなければなりません。

我々も、個別の局面で様々なレベルの成功体験を積み上げてきているはずです。

それをいかに捨てて、あるいは検証して、新しい規範や体制を築いていくのか。

それが我々がやるべきことです。

■もうこの数年、我々は、ずっと転換点といわれる時代を過ごしてきています。

転換点で、重要になるのは戦略--目標を定め、未来に向けて課題を洗い出
し、やるべきことを決める--です。

でも、ここのところ、転換点慣れしてきたのかも知れませんよ^^

だから、黙って目の前のことをやる。無我夢中でやる。といったことに逃げ
込まないように注意しないといけません。

周りに順応して、人間関係だけに注力するということにも逃げないようにし
なければなりません。

腹を括って、今、やるべきことに自分を追い立てていきたい。

2012年に向けて、そう考えたいと思います。



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