「孔子」を学ぶ意味

2015.05.14



(2015年5月14日メルマガより)


■昨年から「孫子の兵法ビジネス活用セミナー」
を開催しています。

参考:「孫子の兵法」を学ぶ http://www.createvalue.biz/column2/post-204.html

「孫子」とは今から約2500年前、古代中国で成立した"生き残るための知恵"が凝縮された書物です。

3年、5年もたずに消えてしまう理論やノウハウが星の数ほどある中で、2500年読まれ続けていることの意味は実に重い。

その内容がホンモノであることは間違いありません。

■孫子の特徴は、なによりもその徹底した現実主義です。

「金になるなら戦争してもよい。ならないならするな」(意訳)と言い切る明快さがすがすがしいと感じるほどです。

言い訳や屁理屈ばかりで動かないのは経営にとって罪以外の何物でもありません。

現実にどう動くのかを教える孫子が、古今東西のリーダーに読まれ続けている所以です。

■そういえば「三国志」の英雄曹操は、孫子の研究者としても有名でした。

曹操の迷いのない現実的な行動力は、三国志の魅力の一つ。アメリカでダントツ人気を誇るというのも頷けるキャラクターです

「三国志演義」には、曹操が若い頃、勘違いから恩人を殺してしまう場面があります。ところが、本人は「大事のためには多少の犠牲はつきもの」と意に介しません。

「罪と罰」のラスコリーニコフも真っ青の超人思想です。しかもラスコリーニコフは罪の重さに耐えられず自滅しますが、曹操は国王にまで上り詰めるのだから大したものです。

■その曹操に立ちはだかるのが、劉備玄徳とその軍師である諸葛孔明です。

漢王朝の末裔として登場した劉備が、本当に力を発揮するのは、稀代の天才軍師・孔明を得てからでした。

孔明は、天下三分の計をもって歴史の表舞台に登場し、曹操の中国統一という野望を挫きました。

劉備は蜀を建国し、中国に三国時代をもたらします。

その劉備が亡きあとも、蜀を支え続けた孔明がひたすら追い求めたのは「漢朝の再興」という劉備の志でした。

孔明ほどの人物が、生涯を賭けて求め続けた「漢」とは、何だったのでしょうか。


■漢とは、古代中国において、紀元前206年から約400年続いた国家です。

秦の始皇帝亡き後、乱れた世を治めたのは、劉邦という人物でした。劉邦が、漢という国を立ち上げました。

もう二度と戦乱の世の中に戻したくない。平和で安定した社会を築きたい。

そう考えた漢の為政者たちは、国家は、武力ではなく徳によって民を治めるべきである。君主は、最も徳のある人物でなければならない。という思想を持つ儒教を国学としました。

諸葛孔明は、その頃の漢こそが理想の国家だと捉えていたようです。だから露骨な覇道を貫く曹操を許せなかったのでしょう。

儒教は、蜀の滅亡後も東アジア全体に広がり、日本においても大きな影響力を持ちました。

現在、われわれ日本人の精神の通底にも儒教の精神が息づいています。

人を思いやる。正しいと思うことをする。礼節を守る。学問にはげむ。誠実である。これらは、われわれにとって当たり前の価値観ですが、そのおおもとは儒教思想にあります。

おそらく儒教のいうことは、決して特殊なことではなく、人間が本来持っている心性にもとづくものなのでしょう。古代中国でも、そのような考えや価値観は当たり前に偏在していたはずです。

だが、約2500年前、一人の天才思想家が、そうした価値観を一つの体系にまとめあげました。

儒教の創設者。その人物こそ、孔子です。


■孔子(孔先生)。姓は孔。名は丘。字は仲尼。魯の国の人です。

もとより身分の高い家に生まれたのではありません。若い頃の孔丘は、農業をはじめとする雑事に従事していました。

ところが、孔丘の母は、巫女でした。利発な孔丘は、母親のもとで遊ぶうち、見よう見まねで儀礼を学んでいったようです。

若くして両親をなくした孔丘は、苦労しながら「礼学」を修めていきました。

孔子自身は「私は若い頃は身分が低かった。だからつまらぬことに多能になった」と謙遜して言っていますが、諸事においてデキる人だったようです。

■魯の役人となった孔丘は、徐々にその才能を認められます。最盛期には、今でいう大臣の地位にまで上りますが、結局はその才能を活かしきることはできませんでした。

いろいろな事情で役人を辞して学校を開きますが、最初のうちは生徒も集まらず苦労したようです。

晩年は名声も高まり、大勢の弟子に囲まれるようになりますが、孔明のように国家を担うような立場につくことはありませんでした

そういう意味では不遇だったと言えます。

■このように孔子は、特定の師につくことなく、苦学して学問を身に着けていきました。

そのため、枠に収まらない発想や思想を持つようになっていったようです。

彼の死後、弟子や孫弟子たちが彼の言葉を思い出して編纂したのが「論語」です。

その思想が、現代の日本にもしっかりと息づいているのは、先に述べた通りです。


■孔子の思想の中心には「仁」があります。

仁を簡単に説明するのは難しいのですが、人を思いやる心、であり、人間存在の基本、人間関係の根本です。

その仁を形にしたものが「礼」です。

また仁をもって正しい行動をすることを「義」といいます。

だから仁義は、正しい心をもって行動すること。礼儀とは正しい形で行動することです。

これに「智」(学問で身に着ける教養)と「信」(誠実、真実)を加えた「仁義礼智信」が、孔子の思想の根本概念です。

■繰り返しになりますが、人を思いやる、正しいことをする、礼節を守る、まじめに勉強する、誠実である、というのは、あらためて言うまでもなく、われわれの基盤にある価値観です。

逆に、孫子を知った時、私は衝撃を受けました。

「利益になるなら人を騙してもよい」なんて、身も蓋もないのもいいところです。

逆にいえば、だからこそ、孫子のような思想を学ばなければならないと思ったのです。

俗に、中国の人たちは「右手に論語、左手に孫子」を持っていると言われます。

身内には仁愛をもって、他人には利害をもって。というのか、顔では仁愛をみせて、腹では利害を計算して。というのか。

いずれにしろ、そんな人たちと渡り合うのに、儒教思想一辺倒ではいいようにされてしまうじゃないですか。


■本当だろうか?

と思ったのです。

本当に孔子の思想は、そんな兵法家にいいようにされてしまうような軽いものなのだろうか。

孔子は、戦乱の世にあって、一家をなしたほどの人物です。大勢の弟子たちとともに、幾多の苦難を乗り越えて、時には戦いながら、死にそうになりながら、生き延びてきました。

そんな人物の思想が、2500年を超えて我々の価値観をなすほどの思想が、そんなに軽いものなのでしょうか。

孔子の思想が、単なる国体保持や、為政者の都合で使われるだけの意味しかないものだとは、どうしても思えないのです。

■私はいま、こう考えています。

一見、相いれないように見える孔子と孫子の思想に、共通するものはないだろうか。

いや、孔子の思想の中に、孫子の兵法をとりいれる余地はないだろうか。

あるいは孫子の兵法の中に、孔子の思想はありえないだろうか。

孫子と孔子が対立している、矛盾している、というだけにとどまらず、なんらかの止揚(違った考え方どうしを結び付けて、新しいものを生み出すこと)ができれば何かが変わるのではないだろうか。

大げさにいえば、それが融合するところに、われわれ日本人の価値観に相応しい「生き方」「生き残り方」「経営の在り方」があると思ったのです。

いま、孔子を学ぶ意味は、そこにこそある。と私は考えています。

■孔子の有名な言葉。

「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」

孔子は、自分の子である伯魚に、まず「詩」と「礼」を学べと教えています。

「礼」は、孔子の根本思想の一つです。現代にいう単なるマナーではありません。

仁を形にしたものが礼といわれますが、それは、人が社会に参加する際のとるべき形であり、仕組みであると考えられます。

それは単なる形式ではありません。孔子自身が、細かな礼義や作法に対して「これはどういう意味だ?」「これはなぜするのか?」と尋ねてまわったといいますから、形骸化した儀礼を認めなかったのでしょう。

礼を知らなければ、人は社会生活を送ることができません。それは生きるための具体的な知恵です。

だから、孔子が「三十にして立ち」といったのは、礼をマスターしたということだったのだと思われます。

ただ、礼だけでは、現実社会を生きていくことはできません。

「詩経」は、その当時の中国で、あらゆる階層の様々な感情を言葉にしたものの集大成です。日本でいえば万葉集みたいなものですね。

孔子が「詩」を学べ。といったのは、現実に生きている人々の気持ちや感情や、それを表現する言葉を学べ。という意味だったのでしょう。

つまり「生きるための仕組み」と「生きている人間」の両方を学ぶことが学問である。と孔子は子に教えたのです。

このひとつをとっても、孔子の思想が、底の浅いものではなかったということがうかがいしれるのではないでしょうか。

私もまだ学び始めたところです。楽しみながら、もっと深く学んでいきたいと思っています。


「孔子」を学ぶ(勉強会のお知らせ)



(2015年5月14日メルマガより)


■昨年から「孫子の兵法ビジネス活用セミナー」
を開催しています。

参考:「孫子の兵法」を学ぶ http://www.createvalue.biz/column2/post-204.html

「孫子」とは今から約2500年前、古代中国で成立した"生き残るための知恵"が凝縮された書物です。

3年、5年もたずに消えてしまう理論やノウハウが星の数ほどある中で、2500年読まれ続けていることの意味は実に重い。

その内容がホンモノであることは間違いありません。

■孫子の特徴は、なによりもその徹底した現実主義です。

「金になるなら戦争してもよい。ならないならするな」(意訳)と言い切る明快さがすがすがしいと感じるほどです。

言い訳や屁理屈ばかりで動かないのは経営にとって罪以外の何物でもありません。

現実にどう動くのかを教える孫子が、古今東西のリーダーに読まれ続けている所以です。

■そういえば「三国志」の英雄曹操は、孫子の研究者としても有名でした。

曹操の迷いのない現実的な行動力は、三国志の魅力の一つ。アメリカでダントツ人気を誇るというのも頷けるキャラクターです

「三国志演義」には、曹操が若い頃、勘違いから恩人を殺してしまう場面があります。ところが、本人は「大事のためには多少の犠牲はつきもの」と意に介しません。

「罪と罰」のラスコリーニコフも真っ青の超人思想です。しかもラスコリーニコフは罪の重さに耐えられず自滅しますが、曹操は国王にまで上り詰めるのだから大したものです。

■その曹操に立ちはだかるのが、劉備玄徳とその軍師である諸葛孔明です。

漢王朝の末裔として登場した劉備が、本当に力を発揮するのは、稀代の天才軍師・孔明を得てからでした。

孔明は、天下三分の計をもって歴史の表舞台に登場し、曹操の中国統一という野望を挫きました。

劉備は蜀を建国し、中国に三国時代をもたらします。

その劉備が亡きあとも、蜀を支え続けた孔明がひたすら追い求めたのは「漢朝の再興」という劉備の志でした。

孔明ほどの人物が、生涯を賭けて求め続けた「漢」とは、何だったのでしょうか。


■漢とは、古代中国において、紀元前206年から約400年続いた国家です。

秦の始皇帝亡き後、乱れた世を治めたのは、劉邦という人物でした。劉邦が、漢という国を立ち上げました。

もう二度と戦乱の世の中に戻したくない。平和で安定した社会を築きたい。

そう考えた漢の為政者たちは、国家は、武力ではなく徳によって民を治めるべきである。君主は、最も徳のある人物でなければならない。という思想を持つ儒教を国学としました。

諸葛孔明は、その頃の漢こそが理想の国家だと捉えていたようです。だから露骨な覇道を貫く曹操を許せなかったのでしょう。

儒教は、蜀の滅亡後も東アジア全体に広がり、日本においても大きな影響力を持ちました。

現在、われわれ日本人の精神の通底にも儒教の精神が息づいています。

人を思いやる。正しいと思うことをする。礼節を守る。学問にはげむ。誠実である。これらは、われわれにとって当たり前の価値観ですが、そのおおもとは儒教思想にあります。

おそらく儒教のいうことは、決して特殊なことではなく、人間が本来持っている心性にもとづくものなのでしょう。古代中国でも、そのような考えや価値観は当たり前に偏在していたはずです。

だが、約2500年前、一人の天才思想家が、そうした価値観を一つの体系にまとめあげました。

儒教の創設者。その人物こそ、孔子です。


■孔子(孔先生)。姓は孔。名は丘。字は仲尼。魯の国の人です。

もとより身分の高い家に生まれたのではありません。若い頃の孔丘は、農業をはじめとする雑事に従事していました。

ところが、孔丘の母は、巫女でした。利発な孔丘は、母親のもとで遊ぶうち、見よう見まねで儀礼を学んでいったようです。

若くして両親をなくした孔丘は、苦労しながら「礼学」を修めていきました。

孔子自身は「私は若い頃は身分が低かった。だからつまらぬことに多能になった」と謙遜して言っていますが、諸事においてデキる人だったようです。

■魯の役人となった孔丘は、徐々にその才能を認められます。最盛期には、今でいう大臣の地位にまで上りますが、結局はその才能を活かしきることはできませんでした。

いろいろな事情で役人を辞して学校を開きますが、最初のうちは生徒も集まらず苦労したようです。

晩年は名声も高まり、大勢の弟子に囲まれるようになりますが、孔明のように国家を担うような立場につくことはありませんでした

そういう意味では不遇だったと言えます。

■このように孔子は、特定の師につくことなく、苦学して学問を身に着けていきました。

そのため、枠に収まらない発想や思想を持つようになっていったようです。

彼の死後、弟子や孫弟子たちが彼の言葉を思い出して編纂したのが「論語」です。

その思想が、現代の日本にもしっかりと息づいているのは、先に述べた通りです。


■孔子の思想の中心には「仁」があります。

仁を簡単に説明するのは難しいのですが、人を思いやる心、であり、人間存在の基本、人間関係の根本です。

その仁を形にしたものが「礼」です。

また仁をもって正しい行動をすることを「義」といいます。

だから仁義は、正しい心をもって行動すること。礼儀とは正しい形で行動することです。

これに「智」(学問で身に着ける教養)と「信」(誠実、真実)を加えた「仁義礼智信」が、孔子の思想の根本概念です。

■繰り返しになりますが、人を思いやる、正しいことをする、礼節を守る、まじめに勉強する、誠実である、というのは、あらためて言うまでもなく、われわれの基盤にある価値観です。

逆に、孫子を知った時、私は衝撃を受けました。

「利益になるなら人を騙してもよい」なんて、身も蓋もないのもいいところです。

逆にいえば、だからこそ、孫子のような思想を学ばなければならないと思ったのです。

俗に、中国の人たちは「右手に論語、左手に孫子」を持っていると言われます。

身内には仁愛をもって、他人には利害をもって。というのか、顔では仁愛をみせて、腹では利害を計算して。というのか。

いずれにしろ、そんな人たちと渡り合うのに、儒教思想一辺倒ではいいようにされてしまうじゃないですか。


■本当だろうか?

と思ったのです。

本当に孔子の思想は、そんな兵法家にいいようにされてしまうような軽いものなのだろうか。

孔子は、戦乱の世にあって、一家をなしたほどの人物です。大勢の弟子たちとともに、幾多の苦難を乗り越えて、時には戦いながら、死にそうになりながら、生き延びてきました。

そんな人物の思想が、2500年を超えて我々の価値観をなすほどの思想が、そんなに軽いものなのでしょうか。

孔子の思想が、単なる国体保持や、為政者の都合で使われるだけの意味しかないものだとは、どうしても思えないのです。

■私はいま、こう考えています。

一見、相いれないように見える孔子と孫子の思想に、共通するものはないだろうか。

いや、孔子の思想の中に、孫子の兵法をとりいれる余地はないだろうか。

あるいは孫子の兵法の中に、孔子の思想はありえないだろうか。

孫子と孔子が対立している、矛盾している、というだけにとどまらず、なんらかの止揚(違った考え方どうしを結び付けて、新しいものを生み出すこと)ができれば何かが変わるのではないだろうか。

大げさにいえば、それが融合するところに、われわれ日本人の価値観に相応しい「生き方」「生き残り方」「経営の在り方」があると思ったのです。

いま、孔子を学ぶ意味は、そこにこそある。と私は考えています。

■孔子の有名な言葉。

「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」

孔子は、自分の子である伯魚に、まず「詩」と「礼」を学べと教えています。

「礼」は、孔子の根本思想の一つです。現代にいう単なるマナーではありません。

仁を形にしたものが礼といわれますが、それは、人が社会に参加する際のとるべき形であり、仕組みであると考えられます。

それは単なる形式ではありません。孔子自身が、細かな礼義や作法に対して「これはどういう意味だ?」「これはなぜするのか?」と尋ねてまわったといいますから、形骸化した儀礼を認めなかったのでしょう。

礼を知らなければ、人は社会生活を送ることができません。それは生きるための具体的な知恵です。

だから、孔子が「三十にして立ち」といったのは、礼をマスターしたということだったのだと思われます。

ただ、礼だけでは、現実社会を生きていくことはできません。

「詩経」は、その当時の中国で、あらゆる階層の様々な感情を言葉にしたものの集大成です。日本でいえば万葉集みたいなものですね。

孔子が「詩」を学べ。といったのは、現実に生きている人々の気持ちや感情や、それを表現する言葉を学べ。という意味だったのでしょう。

つまり「生きるための仕組み」と「生きている人間」の両方を学ぶことが学問である。と孔子は子に教えたのです。

このひとつをとっても、孔子の思想が、底の浅いものではなかったということがうかがいしれるのではないでしょうか。

私もまだ学び始めたところです。楽しみながら、もっと深く学んでいきたいと思っています。


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