織田信長が22年かけてできなかった天下統一を、豊臣秀吉がたった8年でできた理由

2017.11.02

(2017年11月2日メルマガより)

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先ごろ、豊臣秀吉に関する小説を読みました。


新史太閤記 (上巻) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1973-05-29

新史太閤記 (下巻) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1973-05-29


古い本ですが、抜群に面白い。おすすめいたします。

司馬遼太郎の小説はけっこう読んでいたのですが、これは未読でした。

豊臣秀吉の話はありふれている、と思っていましたからね。

ただ「新史」とついているだけあり、一味違う太閤記です。

なにが違うのかというと、豊臣秀吉を「M&A」の名手とし、その天下統一事業を経済活動の一環として描いていることです。

秀吉とその主君であった織田信長。彼ら二人が天下統一を目指した目的は、彼らが推し進めていた商業振興を全国的に拡大することだった、とこの小説には書かれています。


日本で最も有名な武将 豊臣秀吉


のちの豊臣秀吉(羽柴秀吉、木下藤吉郎)は、尾張国中村にて下層階級の子として生まれました。

継父と折り合いが悪かったらしく、幼少の頃から家を出て、浮浪児のような生活を送ったようです。

ところが生来の人好きで、人を喜ばせることが得意だった秀吉は、行く先々で、主人になる人物に好まれました。

最終的に落ち着いたのが尾張の小さな大名だった織田信長の家来です。


天性の人たらし


秀吉は、人が好きでしたから、人の心を読むことがうまく、どうすれば人が喜ぶのかをよく知っていました。

だから人遣いが抜群にうまかった。

自分は小柄で非力な男でしたが、人を働かせる能力に秀でていました。

徹底した実力主義の織田信長に拾われたのは幸運でした。

マネジメント能力を信長に認められた秀吉は、草履とりの身分から、織田家の主力武将へと異例の出世を成し遂げます。

織田信長の光と影


織田信長は、卓越した経済感覚と、壮大なビジョン構築力を持つ人でした。

早くから商業の威力を理解していた信長は、楽市楽座の制定など、商業振興に力を尽くしました。

商業は、市場が大きくなればなるほど盛んになります。だとすれば、尾張一国だけでするよりも、近隣を巻き込んだ方が盛り上がります。さらにいうと、全国で自由に商業できるようになるとさらに盛り上がります。

それなのに各地に独立する大名たちの領地では、自由な交易など許可してくれません。当時の大名たちの感覚では、商人を行き来させることによる情報漏えいと安全保障を脅かされることの方が重大だったからです。

それならば、全国すべてを織田領にするしかない。と信長は考えました。

もちろんそれだけが天下布武を掲げる理由ではないでしょうが、それが結果として商業振興を盛んにすることは事実です。

彼の卓越した経済感覚なくしては天下統一という概念そのものが生まれなかったかも知れません。


ところが彼は猜疑心が強くおまけに吝嗇。敵からも味方からも信頼される人ではありませんでした。

降伏してきた敵には酷薄に接し、味方でも役に立たないと思えば平気で切り捨てる。

いわゆる恐怖で押さえつけるマネジメントスタイルです。

将来に不安を感じた部下に裏切られたのも仕方ないような人物だったのです。


戦国時代のM&A戦略


それに対して豊臣秀吉は天性の人好きでした。

いがみ合うことをことのほか嫌い、誰とでも仲良くしようとする。

主君である信長が殺せと命じた敵でも、ひそかに逃がしてやったりした人です。

だから信長亡き後は、さらに寛大になり、降伏した敵には昔からの仲間のようにふるまいました。

戦の方法にも特徴が出ています。信長がしばしば皆殺しにするような戦いを行ったのに比べて、秀吉の戦いは、圧倒的な兵力数で相手を取り囲んで手出しせず降伏を待つというものでした。

相手にすれば、降伏すれば許してもらえるのだから、安心して投降できます。

だから秀吉は「敵を殺さない」ことを積極的に喧伝しました。捕獲した敵将や滅ぼした大名の子息などにも手厚く遇して、再興を勧めたことさえあります。

それこそが信長のやり方を反面教師として学んだ秀吉の天下統一の戦略でした。

秀吉に対する者は、列を争うように傘下に入っていきました。

だから秀吉の天下統一事業は、異常なほどのスピードで成し遂げられたのです。


異例のスピードで天下を平定


なにしろ、織田信長が織田家の家督を引き継いでから、桶狭間の戦いで天下にその名をとどろかすまでに9年。

天下布武にまい進し、その版図を姫路から岐阜、愛知、北陸の富山あたりまで広げるまでに22年かかっています。

が、本能寺で斃れた信長の後を継いだ豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げるまでたった8年です。

この加速度感はいかがでしょうか。

最初は時間がかかるのが当たり前。信長が生きていたとしても加速度がついたんじゃないのか?という意見もあるでしょう。

しかしそうではありません。敵をなぎ倒し、殺しまくる信長のやり方が、危ういことは当時から囁かれていたようです。

中国の覇者、毛利家の家老、安国寺恵瓊は「あちこちで恨みを買う信長の治世は長く続かない。あとを継ぐのは秀吉だ」と分析していました。

だから信長が本能寺で斃れたあと、毛利家は秀吉に従う方針を早くに固めたのです。

商業の威力を知っていた秀吉


どケチだった信長に比べて、秀吉は気前よく各地の諸将に財産を分け与えました。

当時の最大の財産は領地です。

領地があるから米がとれる。米がとれるから収入になるわけです。

各地の大名は、少しでも多くの領地を得るために、日々の戦に励んでいたのです。

ところが、秀吉は、自分に従う武将には、気前よく領地を分け与えてしまいます。

自分の分がなくなるぐらいにです。

秀吉のやり方はフランチャイズシステムに似ています。運営はあくまで各地の大名です。各大名が思い思いに儲ける。その変わり、本部である豊臣家が広く浅くロイヤリティをとるというものでした。

(もちろん各地の大名が儲けをごまかさないように、土地を調査し、全国の石高を把握していました)

それにしても気前良すぎではないのか?

と思いますが、豊臣家はちゃっかりと堺や大津など交易の要衝地の監督権を握っていました。

秀吉は、信長と同じく、商業の威力を理解し、商業振興によって拡大する莫大な利益を手にしようとしていたのです。

秀吉の経済感覚は同時代の大名たちにはなかったものだったらしく、商業の恩恵を受けたのは豊臣家ほかわずかだけだったようです。

しかし本来、人にいい顔をするのが好きな秀吉が、利益を独り占めしようとしていたようには思えません。

他の大名が理解できなかっただけだと思います。


商業を軽視した徳川政権


結局、こうした経済感覚の違いが、信長と秀吉を卓越した存在にしています。

秀吉は、商業の力をよく理解していました。だからこそ、敵対せずに協力しあうことが得られる価値を増大させるということを知っていました。

もっとも、その甘い態度が、後の徳川家康による政権の簒奪を招いてしまいました。信長なら後顧の憂いとなりそうな存在は有無をいわせず排除していたことでしょう。

徳川の時代、ふたたび農業中心の政策に戻したために、経済規模を縮小させてしまい、しばしば幕府そのものが困窮する事態を招きました。

その経済センスのなさが、琉球を通じた交易で富を蓄えた薩摩藩からの逆転を許すことになってしまったのだから皮肉なことです。

もし豊臣政権がそのまま続いていたら。もし本能寺の変がなく織田政権が続いていたら。

歴史のifはナンセンスだと充分に承知していますが、もしかしたら鎖国もなく、交易も盛んで、西洋と伍していくような国であったかも知れない。と妄想してしまうことをお許しください。

ひと昔前まで、日本企業はM&Aが下手だといわれたものだが


まさかその理由を長く続いた徳川政権に求めるわけではありません。

が、グローバルに開いていかなければならない今日です。

そんな時だからこそ、織田信長のビジョンや、豊臣秀吉のマネジメント方法について大いに学ばなければならないのではない。


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先ごろ、豊臣秀吉に関する小説を読みました。


新史太閤記 (上巻) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1973-05-29

新史太閤記 (下巻) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1973-05-29


古い本ですが、抜群に面白い。おすすめいたします。

司馬遼太郎の小説はけっこう読んでいたのですが、これは未読でした。

豊臣秀吉の話はありふれている、と思っていましたからね。

ただ「新史」とついているだけあり、一味違う太閤記です。

なにが違うのかというと、豊臣秀吉を「M&A」の名手とし、その天下統一事業を経済活動の一環として描いていることです。

秀吉とその主君であった織田信長。彼ら二人が天下統一を目指した目的は、彼らが推し進めていた商業振興を全国的に拡大することだった、とこの小説には書かれています。


日本で最も有名な武将 豊臣秀吉


のちの豊臣秀吉(羽柴秀吉、木下藤吉郎)は、尾張国中村にて下層階級の子として生まれました。

継父と折り合いが悪かったらしく、幼少の頃から家を出て、浮浪児のような生活を送ったようです。

ところが生来の人好きで、人を喜ばせることが得意だった秀吉は、行く先々で、主人になる人物に好まれました。

最終的に落ち着いたのが尾張の小さな大名だった織田信長の家来です。


天性の人たらし


秀吉は、人が好きでしたから、人の心を読むことがうまく、どうすれば人が喜ぶのかをよく知っていました。

だから人遣いが抜群にうまかった。

自分は小柄で非力な男でしたが、人を働かせる能力に秀でていました。

徹底した実力主義の織田信長に拾われたのは幸運でした。

マネジメント能力を信長に認められた秀吉は、草履とりの身分から、織田家の主力武将へと異例の出世を成し遂げます。

織田信長の光と影


織田信長は、卓越した経済感覚と、壮大なビジョン構築力を持つ人でした。

早くから商業の威力を理解していた信長は、楽市楽座の制定など、商業振興に力を尽くしました。

商業は、市場が大きくなればなるほど盛んになります。だとすれば、尾張一国だけでするよりも、近隣を巻き込んだ方が盛り上がります。さらにいうと、全国で自由に商業できるようになるとさらに盛り上がります。

それなのに各地に独立する大名たちの領地では、自由な交易など許可してくれません。当時の大名たちの感覚では、商人を行き来させることによる情報漏えいと安全保障を脅かされることの方が重大だったからです。

それならば、全国すべてを織田領にするしかない。と信長は考えました。

もちろんそれだけが天下布武を掲げる理由ではないでしょうが、それが結果として商業振興を盛んにすることは事実です。

彼の卓越した経済感覚なくしては天下統一という概念そのものが生まれなかったかも知れません。


ところが彼は猜疑心が強くおまけに吝嗇。敵からも味方からも信頼される人ではありませんでした。

降伏してきた敵には酷薄に接し、味方でも役に立たないと思えば平気で切り捨てる。

いわゆる恐怖で押さえつけるマネジメントスタイルです。

将来に不安を感じた部下に裏切られたのも仕方ないような人物だったのです。


戦国時代のM&A戦略


それに対して豊臣秀吉は天性の人好きでした。

いがみ合うことをことのほか嫌い、誰とでも仲良くしようとする。

主君である信長が殺せと命じた敵でも、ひそかに逃がしてやったりした人です。

だから信長亡き後は、さらに寛大になり、降伏した敵には昔からの仲間のようにふるまいました。

戦の方法にも特徴が出ています。信長がしばしば皆殺しにするような戦いを行ったのに比べて、秀吉の戦いは、圧倒的な兵力数で相手を取り囲んで手出しせず降伏を待つというものでした。

相手にすれば、降伏すれば許してもらえるのだから、安心して投降できます。

だから秀吉は「敵を殺さない」ことを積極的に喧伝しました。捕獲した敵将や滅ぼした大名の子息などにも手厚く遇して、再興を勧めたことさえあります。

それこそが信長のやり方を反面教師として学んだ秀吉の天下統一の戦略でした。

秀吉に対する者は、列を争うように傘下に入っていきました。

だから秀吉の天下統一事業は、異常なほどのスピードで成し遂げられたのです。


異例のスピードで天下を平定


なにしろ、織田信長が織田家の家督を引き継いでから、桶狭間の戦いで天下にその名をとどろかすまでに9年。

天下布武にまい進し、その版図を姫路から岐阜、愛知、北陸の富山あたりまで広げるまでに22年かかっています。

が、本能寺で斃れた信長の後を継いだ豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げるまでたった8年です。

この加速度感はいかがでしょうか。

最初は時間がかかるのが当たり前。信長が生きていたとしても加速度がついたんじゃないのか?という意見もあるでしょう。

しかしそうではありません。敵をなぎ倒し、殺しまくる信長のやり方が、危ういことは当時から囁かれていたようです。

中国の覇者、毛利家の家老、安国寺恵瓊は「あちこちで恨みを買う信長の治世は長く続かない。あとを継ぐのは秀吉だ」と分析していました。

だから信長が本能寺で斃れたあと、毛利家は秀吉に従う方針を早くに固めたのです。

商業の威力を知っていた秀吉


どケチだった信長に比べて、秀吉は気前よく各地の諸将に財産を分け与えました。

当時の最大の財産は領地です。

領地があるから米がとれる。米がとれるから収入になるわけです。

各地の大名は、少しでも多くの領地を得るために、日々の戦に励んでいたのです。

ところが、秀吉は、自分に従う武将には、気前よく領地を分け与えてしまいます。

自分の分がなくなるぐらいにです。

秀吉のやり方はフランチャイズシステムに似ています。運営はあくまで各地の大名です。各大名が思い思いに儲ける。その変わり、本部である豊臣家が広く浅くロイヤリティをとるというものでした。

(もちろん各地の大名が儲けをごまかさないように、土地を調査し、全国の石高を把握していました)

それにしても気前良すぎではないのか?

と思いますが、豊臣家はちゃっかりと堺や大津など交易の要衝地の監督権を握っていました。

秀吉は、信長と同じく、商業の威力を理解し、商業振興によって拡大する莫大な利益を手にしようとしていたのです。

秀吉の経済感覚は同時代の大名たちにはなかったものだったらしく、商業の恩恵を受けたのは豊臣家ほかわずかだけだったようです。

しかし本来、人にいい顔をするのが好きな秀吉が、利益を独り占めしようとしていたようには思えません。

他の大名が理解できなかっただけだと思います。


商業を軽視した徳川政権


結局、こうした経済感覚の違いが、信長と秀吉を卓越した存在にしています。

秀吉は、商業の力をよく理解していました。だからこそ、敵対せずに協力しあうことが得られる価値を増大させるということを知っていました。

もっとも、その甘い態度が、後の徳川家康による政権の簒奪を招いてしまいました。信長なら後顧の憂いとなりそうな存在は有無をいわせず排除していたことでしょう。

徳川の時代、ふたたび農業中心の政策に戻したために、経済規模を縮小させてしまい、しばしば幕府そのものが困窮する事態を招きました。

その経済センスのなさが、琉球を通じた交易で富を蓄えた薩摩藩からの逆転を許すことになってしまったのだから皮肉なことです。

もし豊臣政権がそのまま続いていたら。もし本能寺の変がなく織田政権が続いていたら。

歴史のifはナンセンスだと充分に承知していますが、もしかしたら鎖国もなく、交易も盛んで、西洋と伍していくような国であったかも知れない。と妄想してしまうことをお許しください。

ひと昔前まで、日本企業はM&Aが下手だといわれたものだが


まさかその理由を長く続いた徳川政権に求めるわけではありません。

が、グローバルに開いていかなければならない今日です。

そんな時だからこそ、織田信長のビジョンや、豊臣秀吉のマネジメント方法について大いに学ばなければならないのではない。


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