真田幸村はなぜ「日本一の兵」になったのか?

2016.12.29

(2016年12月29日メルマガより)



■2016年もあとわずか。

いろいろあった年ですが、マイブームをひとつあげるとすれば、やはり「真田丸」ですな^^

ひさしぶりに観たNHKの大河ドラマです。

というか第1回放送にはまって以来、最終回まで必死になって観ておりました。

三谷幸喜のユーモアあふれる脚本と、それを体現する草刈正雄の怪演に当初は心躍らせ、中盤からは多彩な登場人物とそれを受ける堺雅人の活躍にひきこまれたものですよ。

■思えば大阪には、真田幸村ゆかりの場所が多い。

天満橋の事務所は大坂城のすぐ近くでしたし、少し移動すれば真田丸跡や幸村終焉の場所もあります。

電車で小一時間も行けば、幸村が蟄居させられた九度山もあります。

大坂の陣で幸村が戦勝祈願したという志紀長吉神社は私の実家の近くにあって、子供の頃よく遊んだ場所でもありました。

今年、嬉しがってこれらの場所を回ったことは言うまでもありません^^

■このメルマガでも「真田丸」に触発されて、関ヶ原の戦いに関する話題をとりあげました。

参考:天下分け目といわれた関ヶ原の戦いはなぜ半日で決着がついたのか
http://www.createvalue.biz/column2/post-402.html

今回のメルマガはその続きです。

「真田丸」の最後の戦いとなった大坂の陣について書きたいと思います。

■大阪の陣とは、慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)に行われた徳川幕府と豊臣家との戦いを指すものです。

天下分け目といわれた関ヶ原の戦いから14年。既に天下は、徳川幕府のものとなっていました。その徳川幕府にとって最後の邪魔な存在が、前政権の治世者であった豊臣家でした。

そもそも織田信長が倒れた後、天下統一という事業を引き継いだのが家臣の豊臣秀吉でした。本来なら政権は織田家に返すものだという話もありますが、そこは戦国の世のこと。秀吉は織田信長の遺族を一大名として遇し、自身が天下人となりました。

その豊臣秀吉が死ぬと、台頭したのが徳川家康です。巧みな立ち回りで豊臣家恩顧の大名たちを手なずけ、政権を簒奪しました。

残された豊臣家とすれば面白くないはずがない。しかしそこは戦国の世のこと。一大名として生きていくほかありません。

■ところが老いた徳川家康は、後顧の憂いにこだわりました。

政権を打ち立てたとはいえ、豊臣家に恩義を感じる大名も少なからずいます。密かに天下を狙う野心を持つ者も多い。自分が死んだあと、動乱が起きるかも知れない。

それに豊臣秀吉の遺児である秀頼は、堂々とした青年に育っていました。

自分の息子である徳川秀忠のことを今一つ頼りないと思っている家康とすれば、気が気ではありません。

そこで家康は、何が何でも豊臣家を亡きものにしようとなりふり構わなくなります

この晩年の焦りが、後世の家康の評判を落とすことになるのですが、本人とすれば死んだ後の評価など構っていられなかったのでしょうね。

秀吉もそうでしたが、長生きした者はとかく晩節を汚すような行動に気を付けなければなりませんな。

豊臣家のやることに何かと難癖をつけて引き起こしたのが大坂の陣でした。

もちろん豊臣家の対応によっては、戦は避けられたかも知れません。家康とはいえ、恭順の意を示す者をむやみに滅ぼすことはできなかったでしょうし、豊臣家が力を失ったならば生かしておいても問題ありません。

しかし、豊臣家は前政権家のプライドを捨てることができませんでした。

家康の言いなりになることをよしとしない豊臣家は、城内に関ヶ原いらい不遇をかこっていた浪人たちを引き入れ戦の準備をはじめます。その数10万人。

その中に真田幸村がいました。

■真田幸村(当時の名前は信繁ですが、幸村で通します)は、関ヶ原の戦いで反徳川についたために、和歌山県の九度山に蟄居させられていました。

当時40歳台半ば。テレビでは堺雅人演じる武者ぶりが際立っていましたが、実際の幸村は、過酷な蟄居生活の中、歯は抜け落ち、髪は白くなり、高齢の老人のようだったといいます。

人生の最盛期に蟄居させられ、このまま朽ちていくのを待つばかりとなっていた幸村にとって、豊臣家の呼びかけは渡りに船だったに違いありません。

真田家の存続は、兄の信之が担っており憂いはありません。あとは名を残すのみ。幸村の行動に迷いはありませんでした。

■真田幸村といえば、高名な戦国武将真田昌幸の二男であり、秘蔵っ子ともいうべき存在です。

が、その経歴は、長い人質生活と蟄居生活に占められており、大きな戦を経験することなく大坂の陣を迎えました。

その人物像も、柔和で辛抱強く、物静かな人だったらしい。およそ猛将というイメージからはかけ離れています。

その幸村が、戦国時代最大の籠城戦(大坂冬の陣)と戦国時代最大の野戦(大坂夏の陣)において凄まじい活躍をみせて、後世「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と語り継がれるのです。

いったい最後の戦いで何があったというのでしょうか。

■常識的に考えて、豊臣家に勝ち目はありません。

以前のメルマガで、戦国武将たちが何より家の存続を第一義と考えており、そのためには内通も二股も辞さずという考えを持っていたことを書かせていただきました。

ありていにいえば、勝ち馬に乗るのが生き残る秘訣です。関ヶ原の戦いとは、それぞれの武将たちが勝ち馬を探るための戦いでもありました。

しかし大坂の陣においては、勝ち馬は誰の目から見ても明らかです。いや、関ヶ原が終わった時点で勝ち馬は決まってしまったのです。

しかも徳川幕府は、馬の選択を間違えた武将たちにも敗者復活のような席を用意しました。上杉、毛利、島津などの諸将を結局は許したのです。

したがって、大坂の陣に敗者復活はあり得ません。徳川方の諸将はみな勝ち馬に乗った者たちであり、豊臣方についた浪人たちは外れ券をつかまされた者たちです。

だから豊臣方に集まった10万人の浪人たちは、このまま不遇に耐えて朽ちていくよりも、最後の意地を見せて、華々しく死に花を咲かせたいという気持ちがあったことでしょう。

大坂の陣で豊臣方の武将が存外の活躍をして、徳川勢を圧倒したのも、その覚悟の差があったものと考えられます。

おそらく真田幸村も同じ気持ちがあったはずだと私は考えています

ところが、真田幸村の死ぬまでの行動には、そんなセンチメンタルさを感じさせません。彼が、大坂の陣に参戦して死ぬまでの数か月間は、勝つためにはどうすればいいのかという行動原理に貫かれています。まずはそのことに驚きます。

■勝利を目標としていた。というのは、その打ち立てた作戦にあります。

まずは籠城戦となった冬の陣において、幸村は当初、野戦を主張しました。

当時、大坂城は難攻不落といわれていました。何しろ織田信長の攻撃を10年間耐え凌いだ石山本願寺跡に豊臣秀吉が心血を注いで建てた城です。「10年持ちこたえる」と豊臣側がいうのも根拠がないわけではありません。

しかし石山本願寺が耐えたのは、兵糧を運び込む信者と輸送ルートがあってのことです。既に孤立している豊臣家にそんな味方はいません。長期的に籠城できる力はありませんでした。

籠城しているうちに、豊臣恩顧の大名が味方してくれると豊臣方は言っていたらしいですが、何とも甘すぎる観測です。

幸村の戦略は、畿内を制圧して近江あたりで東国勢を迎え撃つというもの。古来大坂は山に囲まれた攻めにくい場所であり、防衛ラインは複数あります。初戦をものにして相手を混乱させ、徐々に引きながらゲリラ戦を仕掛けると、相手も簡単には攻めかかれません。

そうなると兵糧の心配が薄くなり長期戦を見込むことができます。その中で有利な講和条件を引き出すのが落としどころとなります。

もっともその戦略はスケールが大きすぎて、豊臣家には受け入れられませんでした。バラバラの浪人衆で広い範囲の前線を維持できるのかという問題となにより浪人たちがいつ寝返るかわからないという疑念があったためです。

豊臣方の疑念も分からないわけではない。仕方ありませんでした。

■籠城が決まった後、幸村が行ったのが、有名な「真田丸」の築城です。

当時の大坂城は東西北を川や海、湿地に囲まれており攻められにくい形状でした。唯一の攻めどころが台地になっている南側です。その弱点を補うために真田丸が作られました。

大坂城を取り囲む徳川勢はおよそ20万。

包囲するだけで攻め込まない徳川勢を幸村が挑発します。怒った徳川勢が不用意に攻めかかったところ、真田丸に詰めた豊臣勢によって散々に打ち破られました。冬の陣の戦死者のほとんどがこの時の戦いによるものだと言われています。

狭路や窪地に敵を誘い込み待ち構えて討つという方法は、父真田昌幸が上田城において二度まで徳川勢を打ち破ったやり方であり、その応用でした。

もっとも豊臣方の勝利は、この局地戦に限られるものでした。

■一方の徳川家康は、戦国時代を生き抜いた者として、実に老獪な戦いぶりを発揮しました。

家康は、大坂城内に内通者を数多く抱えており、内部の状況を把握していたようです。

真田丸攻め難しと見るや、内部の不協和を利用する作戦に出ます。

まず幸村に寝返りの調略をしかけてその噂を城内に流します。真田を今一つ信じていなかった豊臣上層部はそれで疑心暗鬼に陥ります。

その上で大坂城に大砲を打ち込み心理的に揺さぶりをかけます。

侍女数名を大砲で殺された淀君は、神経を参らせ講和に応じてしまいます。

かつて家康は、小牧・長久手の戦いにおいて局地戦で勝利を収めながら、豊臣秀吉の強引な調略と外交交渉に丸め込まれるという失態を演じましたが、今回はその逆をやってのけたわけです。

かくして大坂城は堀を埋め立てられ、防衛能力をほぼ失ってしまう結果となりました。

■わずか6か月後、またもや難癖をつけて徳川が攻めてきました。その数およそ15万。

今度は、明確に豊臣家を滅ぼすための戦いです。家康は3日で片を付けると豪語していました。

南側の堀と真田丸という防御施設を失った豊臣家は、野戦をするしかなくなってしまいました。

当初、豊臣方は、大坂に侵入しようとする徳川勢を狭路で迎え撃つという作戦を立てますが、事前に漏れることになり徳川に迎え撃たれてしまいます。

この日の戦いで後藤又兵衛、木村重成らが討死。真田軍も撤退戦において損害を受けます。

大阪平野に敵を侵入させた上、劣勢の豊臣方からは逃亡者が出始めます。

残った兵は5万から7万程度だったといいますが、この期に及んでも、幸村は、勝利への執念を持ち続けました。

次の日、幸村は、天王寺から生野にかけて(茶臼山から岡山)に防御ラインを敷き、四天王寺あたりの狭い台地に徳川勢を引き込んで戦い、その隙に別働隊で家康本陣を背後から突くという作戦を立てます。

これは、漢の韓信が行った「背水の陣」の応用です。

家康の首をとることで大逆転を狙うというギリギリの作戦でしたが、これも味方の足並みが揃わずに失敗します。

もはやこれまで。さすがの幸村も死を覚悟したといいます。

■こうしてみていると、どうも幸村の立てる作戦には頭でっかちなところがあるように見受けられます。

最初の壮大な野戦案は、豊臣家上層部の理解が得られませんでしたし、最後の作戦も浪人たちの統率がとれずに成立しませんでした。

確かに短期間で理にかなった作戦を立てる能力がある人だったのでしょうが、それを実行する段で詰めの甘さを感じます。

戦場において不測の事態が起こるのは当たり前です。計画通りいく方が珍しいはず。それなのにちょっとしたことで破綻してしまうというのは、作戦そのものに余裕がないということです。

要するに、経験不足だったのですね。これが父親の真田昌幸なら、不測の事態を見越した作戦を立てるでしょうし、代替案も用意していたはずです。

あるいは後藤又兵衛のような歴戦の兵なら、作戦などなくても臨機応変な戦いを見せたでしょう。

もとより寄せ集めの浪人衆に緻密な作戦遂行は難しかったのでしょう。いかんせん実践経験の少ない幸村には荷の重い役割でした。

が、ここで追い詰められた豊臣勢が覚醒したかのような戦いをみせます

■1615年5月7日(現在の6月3日)正午頃、四天王寺に陣取った毛利勝永軍が敵に攻めかかり、この日の戦いが始まります。

開き直った毛利軍は、鬼神のごとき働きを見せて幕府軍の先陣を撃破。第二陣も打ち破ります。

この最初の戦いで毛利軍が勝ったことが、豊臣勢に有利に働きました。逆に、統率がとれなくなった徳川軍は兵力数という優位性を発揮できなくなってしまいました。

乱戦となった戦場で、真田幸村軍も躍動します。

毛利軍が幕府軍を引き付けている隙に、赤揃え甲冑の真田軍が家康本陣に向けて一直線に突き進んでいきました。

その勢いは凄まじく徳川軍の旗本たちを次々と撃破。家康本陣は、逃げ惑う近習たちで大混乱に陥りました。実は、関ヶ原から14年経ち、旗本の多くは代替わりしていました。実践経験がないのは徳川方も同じだったのです。

武田信玄に散々に打ち破られた三方ヶ原の戦い以降、一度も倒れたことがないという徳川軍の馬印が倒されたのはこの時です。あまりの事態に、家康本人が「真田の小倅にこの首を渡してなるものか」と切腹を宣言し、近習から止められるという一幕があったとか。

真田軍は激しい抵抗に合いながらも兵をまとめ、三度も家康本陣への突撃を繰り返したといわれます。その神出鬼没な戦いぶりから幸村は複数の影武者を使って徳川軍を翻弄したという説もあります。

■しかし豊臣方の奮戦もここまででした。一度退却して兵を立て直した徳川軍が攻勢に出ると、兵力数の差が出てしまいます。

押し返された豊臣軍は、次々と討ち死に、あるいは退却、あるいは逃亡し、徳川勢の大坂城内侵入を許してしまいます。

真田幸村も戦いに疲れ安居神社(天王寺区)で休息しているところを討たれたといわれます。最期は疲労困憊して抵抗する力もなかったとか。

最期まで戦線を維持していた毛利勝永軍も、城内に退却し、豊臣秀頼と淀君の介錯をしたといわれています。

それにしても、最後まで幸村たち浪人衆を信じようとしなかった豊臣秀頼と淀君はあわれですね。

戦線有利なうちに秀頼が出陣していれば、もう少し持ちこたえていたかも知れません。幸村は、子供を人質に差し出してまで出陣を促したのですが、結局、母親の淀君に押しとどめられて、戦場に出ることはありませんでした。

一度も戦場に立つことなく自刃しなければならなかった豊臣秀頼の無念はいかばかりのものだったのでしょうか。

■先ほど、大坂の陣は、勝ち馬に乗って新政権での地位を得た者と、外れ券をつかんで居場所をなくした者の戦いだったということを書きました。

毛利、上杉、島津、黒田、前田...

いずれも徳川という勝ち馬に乗り、新政権でも家を維持させることができた者たちです。

しかし、彼らとて、一度は天下を手中に収める可能性があったはずでした。

群雄割拠の時代が終わった今、徳川の傘下に入ることが現実的な選択だったとしても、どこか心の奥にくすぶり続けた何かを残していたことでしょう。

大義もなく実利も薄い大坂の陣に駆り出され、やる気の出ない彼らから見れば、戦場を縦横無尽に駆け回り勝ち馬の中心である徳川宗家をあと一歩まで追い詰めた真田幸村の姿は、眩しく映ったに違いありません。

「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」とは初代薩摩藩主島津忠恒が残した言葉です。

それは徳川の軍門に下らねばならなかった者たちの心が発した声ではなかったのでしょうか。

彼らにとって、真田幸村は、理想の生き方を貫いた唯一無二の英雄だったのです。

※年号等、Wikipediaを参考にしました。


(2016年12月29日メルマガより)



■2016年もあとわずか。

いろいろあった年ですが、マイブームをひとつあげるとすれば、やはり「真田丸」ですな^^

ひさしぶりに観たNHKの大河ドラマです。

というか第1回放送にはまって以来、最終回まで必死になって観ておりました。

三谷幸喜のユーモアあふれる脚本と、それを体現する草刈正雄の怪演に当初は心躍らせ、中盤からは多彩な登場人物とそれを受ける堺雅人の活躍にひきこまれたものですよ。

■思えば大阪には、真田幸村ゆかりの場所が多い。

天満橋の事務所は大坂城のすぐ近くでしたし、少し移動すれば真田丸跡や幸村終焉の場所もあります。

電車で小一時間も行けば、幸村が蟄居させられた九度山もあります。

大坂の陣で幸村が戦勝祈願したという志紀長吉神社は私の実家の近くにあって、子供の頃よく遊んだ場所でもありました。

今年、嬉しがってこれらの場所を回ったことは言うまでもありません^^

■このメルマガでも「真田丸」に触発されて、関ヶ原の戦いに関する話題をとりあげました。

参考:天下分け目といわれた関ヶ原の戦いはなぜ半日で決着がついたのか
http://www.createvalue.biz/column2/post-402.html

今回のメルマガはその続きです。

「真田丸」の最後の戦いとなった大坂の陣について書きたいと思います。

■大阪の陣とは、慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)に行われた徳川幕府と豊臣家との戦いを指すものです。

天下分け目といわれた関ヶ原の戦いから14年。既に天下は、徳川幕府のものとなっていました。その徳川幕府にとって最後の邪魔な存在が、前政権の治世者であった豊臣家でした。

そもそも織田信長が倒れた後、天下統一という事業を引き継いだのが家臣の豊臣秀吉でした。本来なら政権は織田家に返すものだという話もありますが、そこは戦国の世のこと。秀吉は織田信長の遺族を一大名として遇し、自身が天下人となりました。

その豊臣秀吉が死ぬと、台頭したのが徳川家康です。巧みな立ち回りで豊臣家恩顧の大名たちを手なずけ、政権を簒奪しました。

残された豊臣家とすれば面白くないはずがない。しかしそこは戦国の世のこと。一大名として生きていくほかありません。

■ところが老いた徳川家康は、後顧の憂いにこだわりました。

政権を打ち立てたとはいえ、豊臣家に恩義を感じる大名も少なからずいます。密かに天下を狙う野心を持つ者も多い。自分が死んだあと、動乱が起きるかも知れない。

それに豊臣秀吉の遺児である秀頼は、堂々とした青年に育っていました。

自分の息子である徳川秀忠のことを今一つ頼りないと思っている家康とすれば、気が気ではありません。

そこで家康は、何が何でも豊臣家を亡きものにしようとなりふり構わなくなります

この晩年の焦りが、後世の家康の評判を落とすことになるのですが、本人とすれば死んだ後の評価など構っていられなかったのでしょうね。

秀吉もそうでしたが、長生きした者はとかく晩節を汚すような行動に気を付けなければなりませんな。

豊臣家のやることに何かと難癖をつけて引き起こしたのが大坂の陣でした。

もちろん豊臣家の対応によっては、戦は避けられたかも知れません。家康とはいえ、恭順の意を示す者をむやみに滅ぼすことはできなかったでしょうし、豊臣家が力を失ったならば生かしておいても問題ありません。

しかし、豊臣家は前政権家のプライドを捨てることができませんでした。

家康の言いなりになることをよしとしない豊臣家は、城内に関ヶ原いらい不遇をかこっていた浪人たちを引き入れ戦の準備をはじめます。その数10万人。

その中に真田幸村がいました。

■真田幸村(当時の名前は信繁ですが、幸村で通します)は、関ヶ原の戦いで反徳川についたために、和歌山県の九度山に蟄居させられていました。

当時40歳台半ば。テレビでは堺雅人演じる武者ぶりが際立っていましたが、実際の幸村は、過酷な蟄居生活の中、歯は抜け落ち、髪は白くなり、高齢の老人のようだったといいます。

人生の最盛期に蟄居させられ、このまま朽ちていくのを待つばかりとなっていた幸村にとって、豊臣家の呼びかけは渡りに船だったに違いありません。

真田家の存続は、兄の信之が担っており憂いはありません。あとは名を残すのみ。幸村の行動に迷いはありませんでした。

■真田幸村といえば、高名な戦国武将真田昌幸の二男であり、秘蔵っ子ともいうべき存在です。

が、その経歴は、長い人質生活と蟄居生活に占められており、大きな戦を経験することなく大坂の陣を迎えました。

その人物像も、柔和で辛抱強く、物静かな人だったらしい。およそ猛将というイメージからはかけ離れています。

その幸村が、戦国時代最大の籠城戦(大坂冬の陣)と戦国時代最大の野戦(大坂夏の陣)において凄まじい活躍をみせて、後世「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と語り継がれるのです。

いったい最後の戦いで何があったというのでしょうか。

■常識的に考えて、豊臣家に勝ち目はありません。

以前のメルマガで、戦国武将たちが何より家の存続を第一義と考えており、そのためには内通も二股も辞さずという考えを持っていたことを書かせていただきました。

ありていにいえば、勝ち馬に乗るのが生き残る秘訣です。関ヶ原の戦いとは、それぞれの武将たちが勝ち馬を探るための戦いでもありました。

しかし大坂の陣においては、勝ち馬は誰の目から見ても明らかです。いや、関ヶ原が終わった時点で勝ち馬は決まってしまったのです。

しかも徳川幕府は、馬の選択を間違えた武将たちにも敗者復活のような席を用意しました。上杉、毛利、島津などの諸将を結局は許したのです。

したがって、大坂の陣に敗者復活はあり得ません。徳川方の諸将はみな勝ち馬に乗った者たちであり、豊臣方についた浪人たちは外れ券をつかまされた者たちです。

だから豊臣方に集まった10万人の浪人たちは、このまま不遇に耐えて朽ちていくよりも、最後の意地を見せて、華々しく死に花を咲かせたいという気持ちがあったことでしょう。

大坂の陣で豊臣方の武将が存外の活躍をして、徳川勢を圧倒したのも、その覚悟の差があったものと考えられます。

おそらく真田幸村も同じ気持ちがあったはずだと私は考えています

ところが、真田幸村の死ぬまでの行動には、そんなセンチメンタルさを感じさせません。彼が、大坂の陣に参戦して死ぬまでの数か月間は、勝つためにはどうすればいいのかという行動原理に貫かれています。まずはそのことに驚きます。

■勝利を目標としていた。というのは、その打ち立てた作戦にあります。

まずは籠城戦となった冬の陣において、幸村は当初、野戦を主張しました。

当時、大坂城は難攻不落といわれていました。何しろ織田信長の攻撃を10年間耐え凌いだ石山本願寺跡に豊臣秀吉が心血を注いで建てた城です。「10年持ちこたえる」と豊臣側がいうのも根拠がないわけではありません。

しかし石山本願寺が耐えたのは、兵糧を運び込む信者と輸送ルートがあってのことです。既に孤立している豊臣家にそんな味方はいません。長期的に籠城できる力はありませんでした。

籠城しているうちに、豊臣恩顧の大名が味方してくれると豊臣方は言っていたらしいですが、何とも甘すぎる観測です。

幸村の戦略は、畿内を制圧して近江あたりで東国勢を迎え撃つというもの。古来大坂は山に囲まれた攻めにくい場所であり、防衛ラインは複数あります。初戦をものにして相手を混乱させ、徐々に引きながらゲリラ戦を仕掛けると、相手も簡単には攻めかかれません。

そうなると兵糧の心配が薄くなり長期戦を見込むことができます。その中で有利な講和条件を引き出すのが落としどころとなります。

もっともその戦略はスケールが大きすぎて、豊臣家には受け入れられませんでした。バラバラの浪人衆で広い範囲の前線を維持できるのかという問題となにより浪人たちがいつ寝返るかわからないという疑念があったためです。

豊臣方の疑念も分からないわけではない。仕方ありませんでした。

■籠城が決まった後、幸村が行ったのが、有名な「真田丸」の築城です。

当時の大坂城は東西北を川や海、湿地に囲まれており攻められにくい形状でした。唯一の攻めどころが台地になっている南側です。その弱点を補うために真田丸が作られました。

大坂城を取り囲む徳川勢はおよそ20万。

包囲するだけで攻め込まない徳川勢を幸村が挑発します。怒った徳川勢が不用意に攻めかかったところ、真田丸に詰めた豊臣勢によって散々に打ち破られました。冬の陣の戦死者のほとんどがこの時の戦いによるものだと言われています。

狭路や窪地に敵を誘い込み待ち構えて討つという方法は、父真田昌幸が上田城において二度まで徳川勢を打ち破ったやり方であり、その応用でした。

もっとも豊臣方の勝利は、この局地戦に限られるものでした。

■一方の徳川家康は、戦国時代を生き抜いた者として、実に老獪な戦いぶりを発揮しました。

家康は、大坂城内に内通者を数多く抱えており、内部の状況を把握していたようです。

真田丸攻め難しと見るや、内部の不協和を利用する作戦に出ます。

まず幸村に寝返りの調略をしかけてその噂を城内に流します。真田を今一つ信じていなかった豊臣上層部はそれで疑心暗鬼に陥ります。

その上で大坂城に大砲を打ち込み心理的に揺さぶりをかけます。

侍女数名を大砲で殺された淀君は、神経を参らせ講和に応じてしまいます。

かつて家康は、小牧・長久手の戦いにおいて局地戦で勝利を収めながら、豊臣秀吉の強引な調略と外交交渉に丸め込まれるという失態を演じましたが、今回はその逆をやってのけたわけです。

かくして大坂城は堀を埋め立てられ、防衛能力をほぼ失ってしまう結果となりました。

■わずか6か月後、またもや難癖をつけて徳川が攻めてきました。その数およそ15万。

今度は、明確に豊臣家を滅ぼすための戦いです。家康は3日で片を付けると豪語していました。

南側の堀と真田丸という防御施設を失った豊臣家は、野戦をするしかなくなってしまいました。

当初、豊臣方は、大坂に侵入しようとする徳川勢を狭路で迎え撃つという作戦を立てますが、事前に漏れることになり徳川に迎え撃たれてしまいます。

この日の戦いで後藤又兵衛、木村重成らが討死。真田軍も撤退戦において損害を受けます。

大阪平野に敵を侵入させた上、劣勢の豊臣方からは逃亡者が出始めます。

残った兵は5万から7万程度だったといいますが、この期に及んでも、幸村は、勝利への執念を持ち続けました。

次の日、幸村は、天王寺から生野にかけて(茶臼山から岡山)に防御ラインを敷き、四天王寺あたりの狭い台地に徳川勢を引き込んで戦い、その隙に別働隊で家康本陣を背後から突くという作戦を立てます。

これは、漢の韓信が行った「背水の陣」の応用です。

家康の首をとることで大逆転を狙うというギリギリの作戦でしたが、これも味方の足並みが揃わずに失敗します。

もはやこれまで。さすがの幸村も死を覚悟したといいます。

■こうしてみていると、どうも幸村の立てる作戦には頭でっかちなところがあるように見受けられます。

最初の壮大な野戦案は、豊臣家上層部の理解が得られませんでしたし、最後の作戦も浪人たちの統率がとれずに成立しませんでした。

確かに短期間で理にかなった作戦を立てる能力がある人だったのでしょうが、それを実行する段で詰めの甘さを感じます。

戦場において不測の事態が起こるのは当たり前です。計画通りいく方が珍しいはず。それなのにちょっとしたことで破綻してしまうというのは、作戦そのものに余裕がないということです。

要するに、経験不足だったのですね。これが父親の真田昌幸なら、不測の事態を見越した作戦を立てるでしょうし、代替案も用意していたはずです。

あるいは後藤又兵衛のような歴戦の兵なら、作戦などなくても臨機応変な戦いを見せたでしょう。

もとより寄せ集めの浪人衆に緻密な作戦遂行は難しかったのでしょう。いかんせん実践経験の少ない幸村には荷の重い役割でした。

が、ここで追い詰められた豊臣勢が覚醒したかのような戦いをみせます

■1615年5月7日(現在の6月3日)正午頃、四天王寺に陣取った毛利勝永軍が敵に攻めかかり、この日の戦いが始まります。

開き直った毛利軍は、鬼神のごとき働きを見せて幕府軍の先陣を撃破。第二陣も打ち破ります。

この最初の戦いで毛利軍が勝ったことが、豊臣勢に有利に働きました。逆に、統率がとれなくなった徳川軍は兵力数という優位性を発揮できなくなってしまいました。

乱戦となった戦場で、真田幸村軍も躍動します。

毛利軍が幕府軍を引き付けている隙に、赤揃え甲冑の真田軍が家康本陣に向けて一直線に突き進んでいきました。

その勢いは凄まじく徳川軍の旗本たちを次々と撃破。家康本陣は、逃げ惑う近習たちで大混乱に陥りました。実は、関ヶ原から14年経ち、旗本の多くは代替わりしていました。実践経験がないのは徳川方も同じだったのです。

武田信玄に散々に打ち破られた三方ヶ原の戦い以降、一度も倒れたことがないという徳川軍の馬印が倒されたのはこの時です。あまりの事態に、家康本人が「真田の小倅にこの首を渡してなるものか」と切腹を宣言し、近習から止められるという一幕があったとか。

真田軍は激しい抵抗に合いながらも兵をまとめ、三度も家康本陣への突撃を繰り返したといわれます。その神出鬼没な戦いぶりから幸村は複数の影武者を使って徳川軍を翻弄したという説もあります。

■しかし豊臣方の奮戦もここまででした。一度退却して兵を立て直した徳川軍が攻勢に出ると、兵力数の差が出てしまいます。

押し返された豊臣軍は、次々と討ち死に、あるいは退却、あるいは逃亡し、徳川勢の大坂城内侵入を許してしまいます。

真田幸村も戦いに疲れ安居神社(天王寺区)で休息しているところを討たれたといわれます。最期は疲労困憊して抵抗する力もなかったとか。

最期まで戦線を維持していた毛利勝永軍も、城内に退却し、豊臣秀頼と淀君の介錯をしたといわれています。

それにしても、最後まで幸村たち浪人衆を信じようとしなかった豊臣秀頼と淀君はあわれですね。

戦線有利なうちに秀頼が出陣していれば、もう少し持ちこたえていたかも知れません。幸村は、子供を人質に差し出してまで出陣を促したのですが、結局、母親の淀君に押しとどめられて、戦場に出ることはありませんでした。

一度も戦場に立つことなく自刃しなければならなかった豊臣秀頼の無念はいかばかりのものだったのでしょうか。

■先ほど、大坂の陣は、勝ち馬に乗って新政権での地位を得た者と、外れ券をつかんで居場所をなくした者の戦いだったということを書きました。

毛利、上杉、島津、黒田、前田...

いずれも徳川という勝ち馬に乗り、新政権でも家を維持させることができた者たちです。

しかし、彼らとて、一度は天下を手中に収める可能性があったはずでした。

群雄割拠の時代が終わった今、徳川の傘下に入ることが現実的な選択だったとしても、どこか心の奥にくすぶり続けた何かを残していたことでしょう。

大義もなく実利も薄い大坂の陣に駆り出され、やる気の出ない彼らから見れば、戦場を縦横無尽に駆け回り勝ち馬の中心である徳川宗家をあと一歩まで追い詰めた真田幸村の姿は、眩しく映ったに違いありません。

「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」とは初代薩摩藩主島津忠恒が残した言葉です。

それは徳川の軍門に下らねばならなかった者たちの心が発した声ではなかったのでしょうか。

彼らにとって、真田幸村は、理想の生き方を貫いた唯一無二の英雄だったのです。

※年号等、Wikipediaを参考にしました。


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