死せる孔明、生ける仲達を走らす

2009.08.13

(2009年8月13日メルマガより)

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■今日は、久しぶりに書籍を紹介します。

1冊目は、ランチェスター本ですね。

三国志で学ぶランチェスターの法則

いやあ。驚きました。三国志とランチェスター戦略ですよ。

いつか私が書こうと思っていたのに^^;先にやられてしまいました。

でも、いい本ですので、お勧めします。

いかにも便乗本のにおいがしてくる装丁ですが^^;内容は、いたって真面
目に分かりやすく書かれています。

アマゾンのコメントにも書かれていましたが、この本の特徴は、ランチェス
ター戦略との距離のとり方がニュートラルなことです。

無批判に礼賛することもない。もちろん貶すわけでもない。

三国志の名場面に絡ませながら、ランチェスター戦略を経営においてどのよ
うに活用するのかを過不足なく紹介していきます。

感心したのは、他のマーケティング理論やポーターの理論などを紹介し、ラ
ンチェスター戦略との位置関係を丁寧に解説していることです。

こういう本はあまりありませんでした。

私も実務で使うから思うのですが、ランチェスター戦略とポーターの競争戦
略、あるいはコトラーのマーケティング戦略は、重複する部分がかなりあり
ます。

どちらが本家であるとか、正しいとか言っても意味はありませんが、どこが
重複し、どこが違っているのかは、正確に把握しておく必要があります。

そうすることで、それぞれのオリジナリティが際立ち、どの場面でどの戦略
を適用するべきなのかを知ることができます。

それが実務家の姿勢ですからね。

これも「ランチェスター戦略学会」の活動の成果なのでしょうか。アカデミ
ックな雰囲気のあるいい本だと思います。

■もう1冊は三国志本です。

それからの三国志

これは完全な三国志小説です。

ただし、通常の三国志本が省略する諸葛孔明が死んでから、蜀が滅びるまで
の約30年間数十年間を書いています。

確かに、諸葛孔明なきあと、物語は終息に向かって、萎んでいくような印象
があります。

吉川英治もそう書いていますしね。

ただ、現実に、蜀は30年間持ちこたえたのです。

やはりそこには様々な人物やドラマが存在します。

ここにスポットを当てた珍しい小説で、しかも面白い。

諸葛孔明に変わって、全軍を委任される姜維が大活躍しています。

三国志演義の記述でしょうが、姜維が、すんでのところまで魏を追い詰める
場面には、今更ながら手に汗を握りました^^

三国志ファンの方なら必見の小説です。

■さて、今回はお盆でお休みの方が多いでしょうから、軽い話題として、三
国志の話をさせていただきます。

今回が三国志シリーズの完結編だとお考えください。

参考「経営で必要な知恵はすべて三国志に学んだ

参考「もし諸葛孔明が経営顧問だったら

第1回目が周瑜、第2回目が諸葛亮の話をさせていただいたので、今回は司
馬懿(しばい)の話をいたします。

■司馬懿。字は仲達。河内郡温(現在の河南郡)の人です。

司馬氏は、楚漢戦争時代の王族が出自の名門一族です。優秀な人材が多く、
特に三国時代には、聡明な人物が揃っていました。

その中でも、突出して優れていると誉れ高かったのが、司馬懿その人でした。

幼い頃から、才気煥発、博覧強記で、一族の誇りと期待されていました。

そんな人物を、才人が好きな曹操が放っておくはずがありません。

仕官を促す曹操に、司馬懿は仮病を使ってかわそうとしますが、「捕らえて
でも連れて来い」という曹操の命令で、やむなく仕えることとなりました。

司馬懿28歳の時です。

■三国志物語前半で大活躍するのが乱世の奸雄といわれた曹操です。

とりたてて後ろ盾のないこの男が、戦国の世に覇をとなえることができた理
由の一つは、徹底した能力主義を貫いたことです。

才能のある者や、力のある英雄をどんどん自軍に取り組んで、組織の力を強
大にしていきました。

劉備の義兄弟である関羽にも、食指を伸ばしたぐらいですから、英雄収集は
徹底しています。

逆にいうと、曹操には、癖のある英雄たちをコントロールし、使いこなすだ
けの器量があったということです。

やはり曹操自身が、すごい器の人物だったのですね。

■曹操は、諸葛亮(孔明)にも、仕官の誘いをかけていますが、断わられる
とあっさりと退いています。

理由は分かりません。仕官に耐えられないと言われた病弱さを嫌ったのかも
知れませんし、それほど優れた人物であるとは思わなかったのかも知れませ
ん。

しかし、司馬懿には、有無を言わさぬ態度で迫りました。

いかに、司馬懿の評判が高かったのかを示すものです。

■ところが、曹操は、せっかく取り込んだ司馬懿を重用しようとはしません
でした。

彼に才能がないと見限ったのではありません。

魏の中でも、司馬懿の優秀さはすぐに知られるところとなっていました。

むしろ曹操は、司馬懿の突出した才能と、あふれるような野心を見て、警戒
したのだと言われています。

だから、当たり障りのない部署に押し込めて、その才能を飼い殺しにする策
をとっています。

司馬懿とは、英雄曹操が、唯一使いこなすことができなかった才能なのでし
た。

■司馬懿は、感情を表に出さず、穏やかな態度をとるのが得意だったそうで
すが、実際には気性が激しく、巨大な野心の持ち主だったと言われています。

もっとも、左遷されても、この男は殆ど怯むことはありませんでした。

なにしろ、彼は、曹操でさえ恐れる男であることが証明されたのです。

彼はますます人を見下すようになり、その軍事的才能に磨きをかけながら
傲岸な性格をさらに際立たせていきました。

■司馬懿は、曹操の息子である曹丕(そうひ)の信頼を受けていました。

曹操が没し、曹丕が魏の国王になると、司馬懿は次第に重用されるようにな
ります。

地方の長官という立場ながら、幾度か、軍事的な功績を上げて、ついに、全
軍を指揮する立場に上り詰めます。

司馬懿52歳の時でした。

■この野心あふれる男に権力を与えることは非常に危険なことでした。

曹操でさえ、警戒して遠ざけた男をなぜ信用するのか。

魏の重臣たちの中にも、疑問視する声が少なくありませんでした。

しかし、その時、魏は度重なる戦乱で危機に瀕していました。

曹丕の後を継いだ曹叡(そうえい)は、重臣たちの反対にも関わらず「この
難局を乗り切れるのは、司馬懿しかいない」と考えました。

毒をもって毒を制す。

そんな気持ちだったのかも知れません。

■ついにこの時が来た。

司馬懿はそう思ったことでしょう。

あふれる野心に、みなぎる自信。力が湧き出すような高揚感を彼は感じてい
ました。

目の前の敵を排除するのは第一段階に過ぎません。

彼の目には、魏という国そのものの中枢を手中に収めるビジョンが見えてい
たはずです。

それが自分に相応しい位置なのだと。

■しかし、さすがの司馬懿も見誤っていることがありました。

彼が、今、相手にしようとしているのは、中国の歴史上最も才能のある人物
だったのです。

■その時、魏は、蜀という小国からの度重なる攻撃に晒されていました。

なぜ、蜀のような小さな国が、大国魏を圧倒するような攻撃をすることがで
きるのか。

魏の中には、得体の知れない蜀を恐れる者が少なくありませんでした。

いや、蜀を率いる天才諸葛亮を誰もが恐れていました。

「確かに、司馬懿は嫌な奴だが、諸葛亮に対するにはあの男しかいない」

魏の人々がそう思ったのも仕方のないことでした。

■西暦231年、4度目の遠征軍を出した蜀に、司馬懿は相対します。

この時、司馬懿は、諸葛亮に対して、様々な罠を仕掛け、追い詰めていきま
す。

正と奇を自在に操ると言われた諸葛亮に対して、司馬懿も持てる能力の全てを
賭けて戦いました。

三国志演義の中では、まさに秘術を尽くした戦いが展開されます。

■一説では、諸葛亮も、司馬懿を警戒していたと言われます。

魏の中に工作員を送り込んで、司馬懿が左遷するように仕向けたのだという
物語もあります。

確かに、司馬懿は軍事的才能に優れ、同時代には並ぶものはないと評されて
いました。

■折から、戦場には長雨が続き、地盤が緩んでいました。

雨という不確定要素を巧みに利用した司馬懿が、徐々に蜀軍を押し出してい
きます。

敗色濃厚になった蜀軍はそれでも激しい抵抗を続けながら、撤退の期を伺う
ようになりました。

粘る蜀軍に、司馬懿は、ここを勝機と総攻撃を命じます。

自らも、先頭に立っての猛攻撃に、さすがの蜀軍も敗走しはじめました。

ついに、蜀軍を圧倒することができたのです。

勢いに乗って、司馬懿は、蜀軍の殲滅に乗り出します。

■ところが、これはすべて諸葛亮の罠だったのです。

蜀軍の猛将魏延を追って、胡蘆谷を襲った司馬懿は、狭い渓谷の出口を
塞がれて、袋の鼠になったことを知ります。

そこに火薬が投げ込まれ、全軍が火あぶりにされてしまったのです。

火薬を使う戦いは、諸葛亮の得意とするものでした。

司馬懿は、その作戦に完全にはまってしまったのです。

■ところが天が、司馬懿に味方します。

突然、雨が豪雨になり、火の勢いが弱まったのです。

司馬懿は、わずかの隙に、命からがら逃げ出しました。

それは撤退というようなものではなく、全員が本能で逃げていくような有様
でした。

■この時、もし、蜀軍にあと500騎の余剰戦力があれば、魏軍は壊滅して
いただろうと思われます。

それぐらい徹底的な敗戦でした。

最初は、誰が生き残り、誰が死んだのか、それさえも分からなかったほどで
す。

すべては、司馬懿の責任に他なりません。

■人生最大の屈辱でした。

蜀に遥かに勝る戦力を持ちながら、殆ど一方的に敗れてしまったのです。

魏の重臣たちは嗤い呆れました。あの大口を叩いておいて、何ほどのことが
あろうか。

しかし、そんな小物の非難などを気に病む司馬懿ではありません。

司馬懿が衝撃を受けたのは「この世には自分が敵わない相手がいる」という
事実でした。

彼は、その戦いの一部始終を思い起こし、検討し、幾度もシミュレーション
してみました。

彼は、その結果に慄然とせざるを得ませんでした。

もし何度戦っても、諸葛亮に勝てないだろう。

皮肉なことに、司馬懿の優れた軍事的才能が、彼にそう告げるのです。

どう考えても、自分は精一杯のことをやっている。かといって、運や時勢が
相手に味方したために負けたのではない。

能力の次元が違う。

自分の力では到底、あの男に勝てない。

それは、今まで自分を支えてきたプライドを散々に打ち壊すことでした。

あの曹操でさえ恐れた自分だと奢っていたのは何だったのか。。。

■自分の人生をすべて否定されたような衝撃でした。

彼は、自室に閉じこもり、諸葛亮の幻影に怯えていました。

諸葛亮の名前を聞くだけで、身体が震え、目の前が真っ白になるほど。

その扇の動き一つで自在に陣形を変える柔軟な軍配に幾度悩まされたことか。

しかしそれ以上に、五重、六重に張り巡らされた罠の緻密さと奥深さには、
さすがの司馬懿も戦慄を覚えざるを得ませんでした。

■しかし、魏には、司馬懿以上の軍司令官はいません。

3年後、5度目の遠征軍を諸葛亮が起こした時、再び司馬懿は迎え撃つ決意
をします。

司馬懿は冷静に双方の戦力を分析し、非常に的確な戦略を打ち立てます。

彼が全軍に下した命令はただ1つ。

絶対に、戦ってはいけない。守りに徹せよ。

■魏が蜀に勝っているのは、兵力数です。

すなわち強者である魏は、蜀をミートすることが基本戦略となります。

蜀の軍勢に対して、それを凌ぐ兵力数で相対する。

そうすれば、理論上は負けることはありません。

■これに対して、弱者である蜀は、相手を混乱させ隙を作った上で、兵力数
を分散させ、個別に撃破することを狙ってきます。

さすがの諸葛亮も、固く結束した大集団を相手に正面攻撃することはできま
せん。

だから、諸葛亮が最も嫌がる戦法が、司馬懿のとった持久戦だったのです。

■それ以上に、司馬懿には、諸葛亮に対する恐怖心がありました。

もし同じように動けば、どんな罠を仕掛けられるかもしれない。

個人としての力量では敵わないことを認め、勝ちに徹する戦略です。

司馬懿の望みはただ1つ。兵站に難のある蜀が撤退するのを待つことです。

■ところが驚くべきことに、諸葛亮は、兵糧を運ぶ道具を新たに開発して、
ある程度、持久戦に耐える体力をつけてきていました。

あろうことか、五丈原に陣取りした蜀軍は、近くで畑を作り、何年でもそこ
に居座る様子を見せます。

兵站に弱いという課題を、この天才軍師は克服しつつあったのです。

■司馬懿の焦りはいかなるものだったか。

しかし彼は頑として動かず、諸葛亮の挑発をかわし続けました。

女性用の衣服を諸葛亮から贈られた時には、むしろ、周囲の者が憤りを見せ
ました。「敵より遥かに多い兵を率いながら、何を恐れるのですか!」

それでも彼は動きませんでした。

戦えば、負けてしまう。それは彼にとって信念となっていたのかも知れませ
ん。

■ここで再び、天が司馬懿に味方します。

もともと病弱であった諸葛亮が、度重なる戦役に限界を迎え、病に倒れてし
まったのです。

西暦234年8月23日。ついに稀代の天才軍師が五丈原の戦場で没します。

情報をキャッチした司馬懿は、出撃を命じます。

粛々と撤退する蜀軍に襲い掛かった魏軍でしたが、ある渓谷に差し掛かった
ところで、諸葛亮が姿を現し、仰天します。

「しまった。また罠にかかった!」

全軍撤退を命じるも時すでに遅し。後詰めの軍が攻めかかる中、前線は大混
乱に陥り、数百人が死傷したと言われています。

■もっともこれは、諸葛亮が死ぬまぎわに授けた撤退のための策でした。

実際には、諸葛亮は木像にすぎず、蜀軍が攻めかかることはありませんでし
た。

魏軍は、諸葛亮の幻影に怯えて、自ら敗走してしまったのです。

この無様な姿を見た人々は、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と嗤いま
した。

それでも、次の日、蜀軍の陣形を仔細に調べた司馬懿は、その独創性に驚嘆し、
諸葛亮に「天下の奇才である」と最大限の賛辞を述べています。

■無様な姿を晒したとしても、司馬懿は、蜀軍を退けた功労者には違いあり
ません。

その後も、司馬懿は軍功を上げ、魏においては並ぶ者のない権勢を誇るよう
になります。

もっとも本人には、昔の野心あふれる態度は薄れてしまい、どこか超然とし
た哲学者のような様相になっていきます。

後に、政治的に失脚し、蟄居状態になってしまいますが、それでも本人の態
度は変わりませんでした。

もしかすると「諸葛亮とのあの戦いに比べれば、何ほどのこともない」と感
じていたのかもしれません。

■彼はかつての好敵手をいつまでも忘れなかったようです。

謹慎中も、諸葛亮の戦法を学び、研究していたふしがあります。

後に、クーデターを起こして政敵を倒し、中央政界に復帰した後も、軽率な
態度は慎み、魏王を守る姿勢を崩しませんでした。

かつて曹操から「野心が強すぎる」と警戒された者とは思えない慎重さ、あ
るいは老獪さを身に着けていたようです。

■司馬懿が没したのは、西暦251年。72歳の時です。

遺言で、子供たちに主君に対する忠誠を説いています。

果たして、それが本心であったかどうかは分かりません。

結果として、司馬懿の孫が、蜀を滅ぼした後に、魏から国を簒奪し、
晋を建国します。

そして、西暦280年、晋は呉を滅ぼして、中国を統一します。

ここに、100年に渡る三国時代は幕を閉じます。

魏、蜀、呉。三国の歴史は、晋という国の統一によって終わるのです。

何と劇的な物語なんでしょうか。

■司馬懿の視点から三国志を語ることはあまりないでしょう。

しかし、私は彼の人生にも大きなドラマを感じます。

そこに書かれているのは、「人間は負けた時にこそ、真価が問われる」とい
う教訓です。

人間は誰だって、負ける時があります。

敵に負けるだけではない。自分自身の人生に裏切られたと思う時もあるでし
ょう。

そんな時にこそ、どう考え、どう行動するのか。

自分の人生を自分でコントロールできるかどうかは、この一点にかかってい
ると思います。

自分ではどうしようもない、そう思う時にこそ、冷静になって現況を分析し、
正しい戦略を立てることができるのかどうか。

経営においても、人生においても、それが成果の望む者の姿勢であると私は
考えます。

長文を読んでいただき有難うございました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■今日の話は、ところどころ、私自身の解釈を交えているので、三国志その
ままではないところもあります。ご容赦ください。

■司馬懿仲達が実際はどのような人物であったかは分かりません。

私としては、司馬懿が、諸葛亮の思想を学んで、理想の国家を作ることに後
半生を賭けたというような物語にしたかったのですが、それは飛躍しすぎる
と思って自重しました。

1つの説話だと思ってお読みください。



(2009年8月13日メルマガより)

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■今日は、久しぶりに書籍を紹介します。

1冊目は、ランチェスター本ですね。

三国志で学ぶランチェスターの法則

いやあ。驚きました。三国志とランチェスター戦略ですよ。

いつか私が書こうと思っていたのに^^;先にやられてしまいました。

でも、いい本ですので、お勧めします。

いかにも便乗本のにおいがしてくる装丁ですが^^;内容は、いたって真面
目に分かりやすく書かれています。

アマゾンのコメントにも書かれていましたが、この本の特徴は、ランチェス
ター戦略との距離のとり方がニュートラルなことです。

無批判に礼賛することもない。もちろん貶すわけでもない。

三国志の名場面に絡ませながら、ランチェスター戦略を経営においてどのよ
うに活用するのかを過不足なく紹介していきます。

感心したのは、他のマーケティング理論やポーターの理論などを紹介し、ラ
ンチェスター戦略との位置関係を丁寧に解説していることです。

こういう本はあまりありませんでした。

私も実務で使うから思うのですが、ランチェスター戦略とポーターの競争戦
略、あるいはコトラーのマーケティング戦略は、重複する部分がかなりあり
ます。

どちらが本家であるとか、正しいとか言っても意味はありませんが、どこが
重複し、どこが違っているのかは、正確に把握しておく必要があります。

そうすることで、それぞれのオリジナリティが際立ち、どの場面でどの戦略
を適用するべきなのかを知ることができます。

それが実務家の姿勢ですからね。

これも「ランチェスター戦略学会」の活動の成果なのでしょうか。アカデミ
ックな雰囲気のあるいい本だと思います。

■もう1冊は三国志本です。

それからの三国志

これは完全な三国志小説です。

ただし、通常の三国志本が省略する諸葛孔明が死んでから、蜀が滅びるまで
の約30年間数十年間を書いています。

確かに、諸葛孔明なきあと、物語は終息に向かって、萎んでいくような印象
があります。

吉川英治もそう書いていますしね。

ただ、現実に、蜀は30年間持ちこたえたのです。

やはりそこには様々な人物やドラマが存在します。

ここにスポットを当てた珍しい小説で、しかも面白い。

諸葛孔明に変わって、全軍を委任される姜維が大活躍しています。

三国志演義の記述でしょうが、姜維が、すんでのところまで魏を追い詰める
場面には、今更ながら手に汗を握りました^^

三国志ファンの方なら必見の小説です。

■さて、今回はお盆でお休みの方が多いでしょうから、軽い話題として、三
国志の話をさせていただきます。

今回が三国志シリーズの完結編だとお考えください。

参考「経営で必要な知恵はすべて三国志に学んだ

参考「もし諸葛孔明が経営顧問だったら

第1回目が周瑜、第2回目が諸葛亮の話をさせていただいたので、今回は司
馬懿(しばい)の話をいたします。

■司馬懿。字は仲達。河内郡温(現在の河南郡)の人です。

司馬氏は、楚漢戦争時代の王族が出自の名門一族です。優秀な人材が多く、
特に三国時代には、聡明な人物が揃っていました。

その中でも、突出して優れていると誉れ高かったのが、司馬懿その人でした。

幼い頃から、才気煥発、博覧強記で、一族の誇りと期待されていました。

そんな人物を、才人が好きな曹操が放っておくはずがありません。

仕官を促す曹操に、司馬懿は仮病を使ってかわそうとしますが、「捕らえて
でも連れて来い」という曹操の命令で、やむなく仕えることとなりました。

司馬懿28歳の時です。

■三国志物語前半で大活躍するのが乱世の奸雄といわれた曹操です。

とりたてて後ろ盾のないこの男が、戦国の世に覇をとなえることができた理
由の一つは、徹底した能力主義を貫いたことです。

才能のある者や、力のある英雄をどんどん自軍に取り組んで、組織の力を強
大にしていきました。

劉備の義兄弟である関羽にも、食指を伸ばしたぐらいですから、英雄収集は
徹底しています。

逆にいうと、曹操には、癖のある英雄たちをコントロールし、使いこなすだ
けの器量があったということです。

やはり曹操自身が、すごい器の人物だったのですね。

■曹操は、諸葛亮(孔明)にも、仕官の誘いをかけていますが、断わられる
とあっさりと退いています。

理由は分かりません。仕官に耐えられないと言われた病弱さを嫌ったのかも
知れませんし、それほど優れた人物であるとは思わなかったのかも知れませ
ん。

しかし、司馬懿には、有無を言わさぬ態度で迫りました。

いかに、司馬懿の評判が高かったのかを示すものです。

■ところが、曹操は、せっかく取り込んだ司馬懿を重用しようとはしません
でした。

彼に才能がないと見限ったのではありません。

魏の中でも、司馬懿の優秀さはすぐに知られるところとなっていました。

むしろ曹操は、司馬懿の突出した才能と、あふれるような野心を見て、警戒
したのだと言われています。

だから、当たり障りのない部署に押し込めて、その才能を飼い殺しにする策
をとっています。

司馬懿とは、英雄曹操が、唯一使いこなすことができなかった才能なのでし
た。

■司馬懿は、感情を表に出さず、穏やかな態度をとるのが得意だったそうで
すが、実際には気性が激しく、巨大な野心の持ち主だったと言われています。

もっとも、左遷されても、この男は殆ど怯むことはありませんでした。

なにしろ、彼は、曹操でさえ恐れる男であることが証明されたのです。

彼はますます人を見下すようになり、その軍事的才能に磨きをかけながら
傲岸な性格をさらに際立たせていきました。

■司馬懿は、曹操の息子である曹丕(そうひ)の信頼を受けていました。

曹操が没し、曹丕が魏の国王になると、司馬懿は次第に重用されるようにな
ります。

地方の長官という立場ながら、幾度か、軍事的な功績を上げて、ついに、全
軍を指揮する立場に上り詰めます。

司馬懿52歳の時でした。

■この野心あふれる男に権力を与えることは非常に危険なことでした。

曹操でさえ、警戒して遠ざけた男をなぜ信用するのか。

魏の重臣たちの中にも、疑問視する声が少なくありませんでした。

しかし、その時、魏は度重なる戦乱で危機に瀕していました。

曹丕の後を継いだ曹叡(そうえい)は、重臣たちの反対にも関わらず「この
難局を乗り切れるのは、司馬懿しかいない」と考えました。

毒をもって毒を制す。

そんな気持ちだったのかも知れません。

■ついにこの時が来た。

司馬懿はそう思ったことでしょう。

あふれる野心に、みなぎる自信。力が湧き出すような高揚感を彼は感じてい
ました。

目の前の敵を排除するのは第一段階に過ぎません。

彼の目には、魏という国そのものの中枢を手中に収めるビジョンが見えてい
たはずです。

それが自分に相応しい位置なのだと。

■しかし、さすがの司馬懿も見誤っていることがありました。

彼が、今、相手にしようとしているのは、中国の歴史上最も才能のある人物
だったのです。

■その時、魏は、蜀という小国からの度重なる攻撃に晒されていました。

なぜ、蜀のような小さな国が、大国魏を圧倒するような攻撃をすることがで
きるのか。

魏の中には、得体の知れない蜀を恐れる者が少なくありませんでした。

いや、蜀を率いる天才諸葛亮を誰もが恐れていました。

「確かに、司馬懿は嫌な奴だが、諸葛亮に対するにはあの男しかいない」

魏の人々がそう思ったのも仕方のないことでした。

■西暦231年、4度目の遠征軍を出した蜀に、司馬懿は相対します。

この時、司馬懿は、諸葛亮に対して、様々な罠を仕掛け、追い詰めていきま
す。

正と奇を自在に操ると言われた諸葛亮に対して、司馬懿も持てる能力の全てを
賭けて戦いました。

三国志演義の中では、まさに秘術を尽くした戦いが展開されます。

■一説では、諸葛亮も、司馬懿を警戒していたと言われます。

魏の中に工作員を送り込んで、司馬懿が左遷するように仕向けたのだという
物語もあります。

確かに、司馬懿は軍事的才能に優れ、同時代には並ぶものはないと評されて
いました。

■折から、戦場には長雨が続き、地盤が緩んでいました。

雨という不確定要素を巧みに利用した司馬懿が、徐々に蜀軍を押し出してい
きます。

敗色濃厚になった蜀軍はそれでも激しい抵抗を続けながら、撤退の期を伺う
ようになりました。

粘る蜀軍に、司馬懿は、ここを勝機と総攻撃を命じます。

自らも、先頭に立っての猛攻撃に、さすがの蜀軍も敗走しはじめました。

ついに、蜀軍を圧倒することができたのです。

勢いに乗って、司馬懿は、蜀軍の殲滅に乗り出します。

■ところが、これはすべて諸葛亮の罠だったのです。

蜀軍の猛将魏延を追って、胡蘆谷を襲った司馬懿は、狭い渓谷の出口を
塞がれて、袋の鼠になったことを知ります。

そこに火薬が投げ込まれ、全軍が火あぶりにされてしまったのです。

火薬を使う戦いは、諸葛亮の得意とするものでした。

司馬懿は、その作戦に完全にはまってしまったのです。

■ところが天が、司馬懿に味方します。

突然、雨が豪雨になり、火の勢いが弱まったのです。

司馬懿は、わずかの隙に、命からがら逃げ出しました。

それは撤退というようなものではなく、全員が本能で逃げていくような有様
でした。

■この時、もし、蜀軍にあと500騎の余剰戦力があれば、魏軍は壊滅して
いただろうと思われます。

それぐらい徹底的な敗戦でした。

最初は、誰が生き残り、誰が死んだのか、それさえも分からなかったほどで
す。

すべては、司馬懿の責任に他なりません。

■人生最大の屈辱でした。

蜀に遥かに勝る戦力を持ちながら、殆ど一方的に敗れてしまったのです。

魏の重臣たちは嗤い呆れました。あの大口を叩いておいて、何ほどのことが
あろうか。

しかし、そんな小物の非難などを気に病む司馬懿ではありません。

司馬懿が衝撃を受けたのは「この世には自分が敵わない相手がいる」という
事実でした。

彼は、その戦いの一部始終を思い起こし、検討し、幾度もシミュレーション
してみました。

彼は、その結果に慄然とせざるを得ませんでした。

もし何度戦っても、諸葛亮に勝てないだろう。

皮肉なことに、司馬懿の優れた軍事的才能が、彼にそう告げるのです。

どう考えても、自分は精一杯のことをやっている。かといって、運や時勢が
相手に味方したために負けたのではない。

能力の次元が違う。

自分の力では到底、あの男に勝てない。

それは、今まで自分を支えてきたプライドを散々に打ち壊すことでした。

あの曹操でさえ恐れた自分だと奢っていたのは何だったのか。。。

■自分の人生をすべて否定されたような衝撃でした。

彼は、自室に閉じこもり、諸葛亮の幻影に怯えていました。

諸葛亮の名前を聞くだけで、身体が震え、目の前が真っ白になるほど。

その扇の動き一つで自在に陣形を変える柔軟な軍配に幾度悩まされたことか。

しかしそれ以上に、五重、六重に張り巡らされた罠の緻密さと奥深さには、
さすがの司馬懿も戦慄を覚えざるを得ませんでした。

■しかし、魏には、司馬懿以上の軍司令官はいません。

3年後、5度目の遠征軍を諸葛亮が起こした時、再び司馬懿は迎え撃つ決意
をします。

司馬懿は冷静に双方の戦力を分析し、非常に的確な戦略を打ち立てます。

彼が全軍に下した命令はただ1つ。

絶対に、戦ってはいけない。守りに徹せよ。

■魏が蜀に勝っているのは、兵力数です。

すなわち強者である魏は、蜀をミートすることが基本戦略となります。

蜀の軍勢に対して、それを凌ぐ兵力数で相対する。

そうすれば、理論上は負けることはありません。

■これに対して、弱者である蜀は、相手を混乱させ隙を作った上で、兵力数
を分散させ、個別に撃破することを狙ってきます。

さすがの諸葛亮も、固く結束した大集団を相手に正面攻撃することはできま
せん。

だから、諸葛亮が最も嫌がる戦法が、司馬懿のとった持久戦だったのです。

■それ以上に、司馬懿には、諸葛亮に対する恐怖心がありました。

もし同じように動けば、どんな罠を仕掛けられるかもしれない。

個人としての力量では敵わないことを認め、勝ちに徹する戦略です。

司馬懿の望みはただ1つ。兵站に難のある蜀が撤退するのを待つことです。

■ところが驚くべきことに、諸葛亮は、兵糧を運ぶ道具を新たに開発して、
ある程度、持久戦に耐える体力をつけてきていました。

あろうことか、五丈原に陣取りした蜀軍は、近くで畑を作り、何年でもそこ
に居座る様子を見せます。

兵站に弱いという課題を、この天才軍師は克服しつつあったのです。

■司馬懿の焦りはいかなるものだったか。

しかし彼は頑として動かず、諸葛亮の挑発をかわし続けました。

女性用の衣服を諸葛亮から贈られた時には、むしろ、周囲の者が憤りを見せ
ました。「敵より遥かに多い兵を率いながら、何を恐れるのですか!」

それでも彼は動きませんでした。

戦えば、負けてしまう。それは彼にとって信念となっていたのかも知れませ
ん。

■ここで再び、天が司馬懿に味方します。

もともと病弱であった諸葛亮が、度重なる戦役に限界を迎え、病に倒れてし
まったのです。

西暦234年8月23日。ついに稀代の天才軍師が五丈原の戦場で没します。

情報をキャッチした司馬懿は、出撃を命じます。

粛々と撤退する蜀軍に襲い掛かった魏軍でしたが、ある渓谷に差し掛かった
ところで、諸葛亮が姿を現し、仰天します。

「しまった。また罠にかかった!」

全軍撤退を命じるも時すでに遅し。後詰めの軍が攻めかかる中、前線は大混
乱に陥り、数百人が死傷したと言われています。

■もっともこれは、諸葛亮が死ぬまぎわに授けた撤退のための策でした。

実際には、諸葛亮は木像にすぎず、蜀軍が攻めかかることはありませんでし
た。

魏軍は、諸葛亮の幻影に怯えて、自ら敗走してしまったのです。

この無様な姿を見た人々は、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と嗤いま
した。

それでも、次の日、蜀軍の陣形を仔細に調べた司馬懿は、その独創性に驚嘆し、
諸葛亮に「天下の奇才である」と最大限の賛辞を述べています。

■無様な姿を晒したとしても、司馬懿は、蜀軍を退けた功労者には違いあり
ません。

その後も、司馬懿は軍功を上げ、魏においては並ぶ者のない権勢を誇るよう
になります。

もっとも本人には、昔の野心あふれる態度は薄れてしまい、どこか超然とし
た哲学者のような様相になっていきます。

後に、政治的に失脚し、蟄居状態になってしまいますが、それでも本人の態
度は変わりませんでした。

もしかすると「諸葛亮とのあの戦いに比べれば、何ほどのこともない」と感
じていたのかもしれません。

■彼はかつての好敵手をいつまでも忘れなかったようです。

謹慎中も、諸葛亮の戦法を学び、研究していたふしがあります。

後に、クーデターを起こして政敵を倒し、中央政界に復帰した後も、軽率な
態度は慎み、魏王を守る姿勢を崩しませんでした。

かつて曹操から「野心が強すぎる」と警戒された者とは思えない慎重さ、あ
るいは老獪さを身に着けていたようです。

■司馬懿が没したのは、西暦251年。72歳の時です。

遺言で、子供たちに主君に対する忠誠を説いています。

果たして、それが本心であったかどうかは分かりません。

結果として、司馬懿の孫が、蜀を滅ぼした後に、魏から国を簒奪し、
晋を建国します。

そして、西暦280年、晋は呉を滅ぼして、中国を統一します。

ここに、100年に渡る三国時代は幕を閉じます。

魏、蜀、呉。三国の歴史は、晋という国の統一によって終わるのです。

何と劇的な物語なんでしょうか。

■司馬懿の視点から三国志を語ることはあまりないでしょう。

しかし、私は彼の人生にも大きなドラマを感じます。

そこに書かれているのは、「人間は負けた時にこそ、真価が問われる」とい
う教訓です。

人間は誰だって、負ける時があります。

敵に負けるだけではない。自分自身の人生に裏切られたと思う時もあるでし
ょう。

そんな時にこそ、どう考え、どう行動するのか。

自分の人生を自分でコントロールできるかどうかは、この一点にかかってい
ると思います。

自分ではどうしようもない、そう思う時にこそ、冷静になって現況を分析し、
正しい戦略を立てることができるのかどうか。

経営においても、人生においても、それが成果の望む者の姿勢であると私は
考えます。

長文を読んでいただき有難うございました。

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■今日の話は、ところどころ、私自身の解釈を交えているので、三国志その
ままではないところもあります。ご容赦ください。

■司馬懿仲達が実際はどのような人物であったかは分かりません。

私としては、司馬懿が、諸葛亮の思想を学んで、理想の国家を作ることに後
半生を賭けたというような物語にしたかったのですが、それは飛躍しすぎる
と思って自重しました。

1つの説話だと思ってお読みください。



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